電動アシスト自転車(e-Bike)とエネルギー危機と脱炭素社会
- 香月葉子
- 4月6日
- 読了時間: 16分
更新日:2 時間前
ひっそりと共存している驚異
つい先ごろ子乗せ電動アシスト自転車(e-Bike)についてのエッセイを書きました。

アメリカで暮らしていたときにはロードバイクに乗っていたわたしも、いまはミニベロタイプの電動アシスト自転車に乗っていますので、一般に「電チャリ」と呼ばれている乗り物とは縁がないわけではありません。
じつは、このあいだ、子乗せ電動アシスト自転車について書きたいとおもいたったのは、電動自転車(e-Bike)の印象そのものに小さな驚きを感じたからです。
あの『文明の利器』と呼ばれるのにもふさわしい、子供のいる女性にとっては必要不可欠な、とんでもなくすばらしい発明品が、あまりにもあたりまえのように日本の街路を走っていて、しかも、その貴重な存在をおおげさに主張しないことにおどろかされたのだとおもいます。

たとえば水道水を燃料にして走る自動車が実用化されているのにもかかわらず、また、それを街中でしょっちゅう見かけるのにもかかわらず、そんなことは取り立てて言うほどのことでもないし騒ぐことでもないといったあつかいを受けていたとしたらどうでしょう。
ひっそりと迫ってくる脅威
いま、世界は石油や天然ガスの奪い合いでますますキナ臭くなり、いたるところで紛争や戦争が勃発しています。
そのあたりの事情については『ロシア・ウクライナ戦争の原因と背景 | 資源と覇権と貪欲』のなかで述べていますので、興味がおありの方はお読みください。
あのエッセイのなかの『戦争の背後にうごめく「貪欲な」(greedy)ものたち』のセクションでは化石燃料が手に入らなくなったときに社会がどんなことになるのかについて書いています。
ご存知のように、戦争や自然災害や経済制裁などによって化石燃料を得ることがむつかしくなりますと、そのせいで運送費や交通費はどんどん上昇します。
とうぜんモノの値段もあがってきます。
そうなると、まるでタイムマシンで過去へ時間を巻きもどすかのようにして世界の国々は自国を守るため(つまり現在の統治機構を温存するため)にそれぞれ門戸を閉じはじめることが考えられます。
つまりナショナリズムに傾く国々が増えてきます。
国をまたいで移動する自由もごく一部の人々をのぞいて制限されはじめるかもしれません。
グローバルからローカルへの回帰とでも言えばいいのでしょうか。
もともと産業革命以降の発明と技術から生み出された進歩はすべて石炭・石油・天然ガスから生み出されるエネルギーによって支えられてきたものです。
俗に言われている「デジタル文明」を土台にした第4次産業革命というものも「電気」がなければ話になりません。
その電気は化石燃料によって生み出されているものです。
そして「いいえ、風力発電や太陽光発電や水力発電によっても電気を作ることはできます」と反論したとしても、「では、電気を作るためのそういうお道具はどのようにして作られているの?」という問いの前にはことばをにごすしかありません。
つまり、わたしたちの現在の文明を支えているエネルギーを生み出す元が手に入りにくくなってくると、この資本主義の右肩上がりの成長が化石燃料の高騰で足ぶみをはじめ、じわじわと終わりをむかえることになるかもしれないのです。
つまり経済成長・発展の終焉(The End of Growth)です。

新しいエネルギー源を発見する以前のお話
わたしたちヒトという生き物は、この肉体の力だけでは足りないところを、過去何千年ものあいだずっと牛や馬やロバやラクダなどの大型の家畜たちの筋力にたよってきました。
1頭の牛や馬はおそらく一千万円近いトラクターとおなじ価値をもっていたのではないでしょうか。
アメリカ大陸横断鉄道のレールを敷いたり、たとえばピラミッドのような大きな建造物を作るときには、自分たちと同じヒトを大勢あつめてきて、そのひとたちをほとんど無給に近い奴隷として過酷な労働をさせることで、その鉄道のオーナーやその国の王(ファラオ)にとっては「コスパの良い」結果を引き出すことができました。

土や鉄などを加工するために必要な火力、そしてお料理するためや暖をとるため、そして暗闇を照らし捕食動物から身を守るための灯りを得るためのエネルギーは、木々を燃やすことや動物を殺して得られた油(鯨油は代表的なものです)などによって手に入れてきました。
そういう生活はロンドンでガス灯がともる1800年代初頭までずっと変わらないままでした。
何千年、いえ、「火」を発見して木々を燃やすことをおぼえてからは、ほとんど何万年、いえ、何十万年ものあいだずっとです。
たとえば、人力で車重1.5トンの小型乗用車を10キロ先まで押していこうとすると、たとえニュートラルにしてタイアを転がせる状態にしていたとしても、筋力に自信のある大人の男女3人が、すくなくとも7、8時間くらいは汗を流すことになるのではないでしょうか。
平坦な道ならまだしも、もしも、それが長い長い上りの坂道だったとしたら…?
ところが、たった1リットルの黒い液体を自動車の燃料タンクに注ぎ入れるだけで、そんな苦行から一瞬にして解放されるのです。
1.5トンの重さの自動車に乗って10キロを移動することがわずか数十分で可能になります。
しかもペダルに足をのせるという労力だけで。
おまけに冷暖房までついてきます。
つまり、19世紀以降、わたしたちは魔法のエネルギー源を手にしたわけです。
しかも、石油は電気を作ったり鉄鋼を加工したりするためのエネルギーを発生させてくれるだけではなくて、みなさんもご存知のように、わたしたちのまわりにあるプラスティック製品、そしてストッキングやサランラップなどの製品を生み出し、化粧品や薬剤を提供してくれますし、その上、アスファルト道、そして農業に必要な肥料と農薬の両方をも石油から得ることができます。
つまり、映画アヴェンジャーズのシリーズでお目見えした『四次元キューブ』などよりもはるかに変幻自在で優秀なエネルギー源を手にしたわけです。
それによって、さきほど説明したように自動車を動かすことができるようになりました。
ただし、その自動車を作るためには鉄やゴムなどが必要になってきます。
また、アルミニウムを得るための鉱石ボーキサイトや自動車に内蔵された電子制御ユニットに必要なレアアースなど、自動車に必要なすべての原材料を見つけてこなければいけません。
見つけたあとは、ダイナマイトや重機によってそれを掘り出し、巨大トラックや船舶で運搬し、何千キロも離れた工場でそれぞれの部品を加工し、鉄鋼やタイアやプラスチックや半導体やウレタンをつくり、それをふたたび何千キロの遠くから集めて組み立て、製品として完成させるわけです。
そのプロセスは非常に複雑ですし、それだけに多大なエネルギーを必要とします。
ひとつの小さな部品や商品ですら、わたしたちの手もとにとどくまでに最低1,000キロを超える距離を旅してきたのですから。
そして、それら一連のプロセスそのものが石炭や石油や天然ガスが生み出してくれるエネルギーにたよっているのです。

ホームレスからマンション住まいへ
たとえてみると、化石燃料の発見は、数千年のあいだ道ばたで木々の枝と葉っぱで作ったテントを張って雨風をしのぎながら生きてきた人類全員に、ある日、とつぜん、4LDKのマンションがあてがわれたようなものだったのかもしれません。
ホームレスだった人類がとつぜんゴージャスなマンションに移り住むことができるようになったわけです。
しかも血のにじむような苦労をすることもなく。
それが産業革命が生み出したものであり、資本家たちが「資本主義がもたらしたのはたんなる技術革新や数々の発明だけにはとどまらない。医学も飛躍的に進歩し、人類の平均寿命も19世紀後半からほとんど垂直に近い延びを示している。また女性の社会進出は進み、病死したり餓死したりするひとびとの数も激減している」と述べる進歩は、じつは資本主義のおかげでもなければ社会主義でもファシズムでも共産主義によってもたらされたものでもありません。
つまり、富と労働と個人の自由の配分をどうすればよいかということについての、そういうさまざまな考え方のちがいによるものではなくて、ひとえに石炭・石油・天然ガスを見つけたことによるものなのです。
そして、そのパワーのありがたさに人類が気がついたことによるものなのです。
もちろん化石燃料を発見する以前の時代には何もなかったというわけではありません。
みなさんもご存知のように、17世紀の江戸は、当時の世界の主要都市パリやロンドンなどをはるかにしのぐ人口の多さを誇る大都市でしたし、上水道や下水道のシステムもととのっていました。
また、タージマハールや金閣寺やベルサイユ宮殿などの建築物をごらんになれば、わたしたちヒトの知識と知恵がどれほどのものであったかは一目瞭然でしょう。
過去のひとびとがつくりだしてきたさまざまな銃器や大砲、もしくは楽器などをごらんになったらわかります。
金や銀や銅や鉄をあつかうことにも長けていたのです。
そしてわたしたちヒトという生き物は主に木と石と土を使って村を作り都市を作ってきたわけです。
断崖絶壁のまんなかや岩山の頂だけではなく、獣ですら通らないようなジャングルの奥など、この目を疑うような場所に城塞(じょうさい)を築くことすらできました。
でも、この過去の人類がなしとげた「叡智の結晶」(えいちのけっしょう)に触れたときの感動は、たぶん化石燃料から生み出されたエネルギーにささえられた近代文明のなかに生まれてきたわたしたちが抱く「驚き」(sense of wonder)からきているものがほとんどではないでしょうか。
ショベルやブルドーザやクレーンなどの重機がなく大型トラックもなく溶接機もないような時代にあれほどの建築物を作ることができたり、燃やすものが木炭しかない時代にどうやってあれほど美しく硬い刀や陶器をつくることができたのだろう?
そんな驚きがヒトという生き物の凄さと不思議さをあらためて感じさせてくれるのかもしれません。
そうは言っても、たとえば、重病人を寒村から医者のいる町まで馬車に乗せて雨のなかのぬかるみを運んでゆく世界と、石炭で走る汽車や、ガソリンで走る自動車に乗せてアスファルト道(石油から作られています)で運んでゆく世界とでは、とうぜん平均寿命の数値にも差が出てきたはずでしょう。
たとえ瀕死の病人でなくても…たとえば、風邪をひいて高熱を出している幼児が苦しんでいたとしても、馬車で医者を連れてくるのと自動車に子供を乗せて連れていくのとでは、大きなちがいがあったことはうなずけます。
産業革命以前の世界では、助かる者も助からなかったことが多かったのにちがいありません。
でも、産業革命がもたらしたものは良いことばかりではありませんでした。
たとえば、その後、職人さんたちによる手作りの製品は影をひそめていき、工場の大型機械による大量生産による製品が世にひろまっていったことは、みなさんもご承知だとおもいます。
進歩にはいつも光と影がつきものなのでしょう。

掘れば掘るだけ損をする
それほど大切な石炭・石油・天然ガスなのですけれど、それらを得るために必要なエネルギーのほうが、それによって利益を得るためのエネルギーよりも大きくなれば、採掘することは無意味になってきます。
それはEROI(energy return on investment : エネルギーの投資にたいする回収率)と呼ばれています。
地球から石炭・石油・天然ガスが近いうちに枯渇してしまうという話ではありません。
この地球にはまだまだそれらが埋蔵されている場所があり、そこから新たな石炭や石油や天然ガスを手にすることができれば、わたしたちのこの産業革命以降からはじまった便利で贅沢な暮らしももうすこし続けることができるのではないかと考えられています。
ただ、それらを採掘するためのコストが天文学的数字になってしまうような、そんな場所や深さでしか発見されなくなってきているということが不安のタネなのです。
それに化石燃料はあくまでも限られた資源なのですから、どちらにしても、いつかその井戸が空になってしまう時はおとずれます。
かつて石油会社の重役や広報担当の方々がよく言うことばに「石油がなくなってきたなんてことを声高に叫んでいる連中がいるが、石油がなくなるようなことはありえない」というのがありましたけれど、映画『ジャイアント』(1956年)で描かれているように、昔は大地をほんのすこし掘るだけで石油が噴き出して、その土地を買収して所有していた者は億万長者になることができました。
けれども、いつのころからか、岸から何十キロも沖合に設置された海底掘削基地で、しかも北海の荒波のまんなかで数千メートルの深さにまで掘りすすまなければ石油を得ることができなくなっていましたし、その北海海底油田ですらもが現在枯渇の危機に瀕(ひん)しているという事実からは目をそむけることができなくなっています。

消費文化が終わりを迎えるかも?
それほど大切な石炭や石油や天然ガスの供給に陰りがみえてきたとしたら、大好きだった海外からの果物やパスタやお菓子類ともお別れの時が近づいているということです。
ほとんどが輸入物だったり、それを作る材料が輸入にたよらざるを得ないようなモノばかりですから。
いえ、それだけではありません。
海外で作られた化粧品や自動車や洋服も手に入らなくなってくるでしょう。
1960年代にいたるまでがそうだったように、海外旅行などというのはほんのひとにぎりのお金持ちやエリートの方々だけの特権になるかもしれません。
国際線の旅客機だけではなく国内線においても飛行機というのは贅沢きわまりない乗り物になっていくでしょう。
そして、もちろん、石油を原料にしていたアスファルト道はすこしずつ砂利道へともどっていくでしょう。
「いやいや、トウモロコシから得られるバイオメタノールや合成燃料(e-fuel)などカーボンニュートラルなエネルギーを手にすることができるから、まだまだだいじょうぶ」とおっしゃる方々もいらっしゃいます。
その研究をすすめることでお給料をもらっている化学者や研究者の方々、そしてそういう「新しい」エネルギーへの期待と希望をあたえてくれる開発をおしすすめるための広告塔の役割を担うことでお給料を得ている方々も多いことでしょうから、それもとうぜんだとおもいます。
でも、たとえば核融合の理論は1920年代に生まれていまだに実用化にはいたっていませんし、合成燃料は第二次世界大戦の時代、つまり1940年代のころに生まれたのにもかかわらず、コストを下げて製品として実用化できるまでにはまだあと2、30年はかかると言われています。

それに、太陽光発電や風力発電がどのくらい広い土地を必要とするのか、しかも、それを製造して設置するコストと維持費にくらべて、じっさいに生み出される電力がどのくらい少ない量なのかについても、すでにご存知の方が多いとおもいます。
カリフォルニア大学バークレー校で聴講生をしていたころ、生物学の教授だったか人類学の教授だったか忘れましたけれど、「歴史的に見て、科学の世界で60年以上ものあいだ研究をかさねてきたのにもかかわらず実用化のための成果や躍進が得られなかった場合、その理論と研究はおそらく実現不可能なものだと考えてまちがいない」とおっしゃっていたのをおぼえています。
なにをどうしてもスタート地点に引きもどされるって?
これを読んでくださっているみなさんはとっくに気がついておられるのかもしれませんが、ようするに二次エネルギーと呼ばれるものはすべて一次エネルギーにたよらざるを得ないという事実がネックなのです。
「エネルギー危機をのりこえるためには新たなエネルギーを生み出せば良いのだ。そうすればなんとかなる」という考え方とやり方そのものが、その新たなエネルギーを作りだすためにますます一次エネルギーを使い果たしてゆく原因そのものになってしまうという構造的な矛盾がネックなのです。
そうなると「モノを大切にしよう」という考え方と「長く使えるモノ作りをしよう」という考え方が、ふたたび手をむすぶときが来るのではないかと考えられます。
大げさな言い方をすれば、ようするに「消費文化の終焉」ということが刻々と近づいているのかもしれません。
でも、そんなことを言うと、こんどは、モノを作るための原料をさがしたり加工することで生きている企業、つぎからつぎへと新しい製品を生み出すことで生活している会社、またその「新しいモノこそ価値あるモノ」という考え方や見方をひろめることで生計を立てている評論家や有識者と言われるような方々、そして、おなじようにそれらの企業がスポンサーになってくれているおかげで命をつないでいるメディアや広告業で働いている方々はどうすればよいのかという難題がひかえています。
ところが、そんな暗い不安をもたらすシナリオですら、わたしたち一般人にとってはほとんど『見えない危機・聞こえない危機』のひとつとして隠されているようなのです。
とは言っても「日本のエネルギー事情」をちょっとお調べになったらおわかりになることですけれど…。
一次エネルギーとは石油・石炭・天然ガス・原子力・薪・水力・潮流・地熱・太陽エネルギー・トウモロコシ・牛糞など自然の恵みによって得られるものであることはみなさんご存知だとおもいます。

そして、二次エネルギーがそれを燃やしたり加工したりすることで生まれる電力・都市ガス・ガソリン・プロパンガス・灯油・軽油などですし、また、新たなところではバイオエネルギーや合成燃料であることもご存知だとおもいます。
ですから、とにかく、なるべく早く化石燃料そのものへ寄りかかる移動手段から離れて、化石燃料やその他の自然から得られた二次エネルギー(たとえば電力)による移動手段にたよるようにしたほうが良いのでは、という意見が大多数です。
せめて電気だけは絶やさないで
たとえば電動アシスト自転車(e-Bike)がひとりの人間を1キロ移動させるのに必要なエネルギー消費量は自動車にくらべて40分の1ですむと言われています。
ステキなことだとおもいます。
ただし、それと環境問題とが密に関係しているかといえばかなり疑問に感じているところもありますので、そのうち地球温暖化とCO2問題についても書くつもりではいます。
ところで、移動手段のための身近なお道具(自動車やモーターバイクなど)を電動化することは脱炭素社会の実現には欠かせないことだ、ということばをお聞きになった方は多いのではないでしょうか。
そして、たとえば、EV(電気自動車:エレクトリック・ヴィークル)はガソリン車のに比べて組み立てに必要な部品数が2万点 vs 3万点で、およそ1万点ほどすくなくてすむということもお聞きになったかもしれません。
けれども、テスラ1台を生産するために使われる化石燃料の総消費量(レアアースなどの原材料を得るために必要な大型機械を動かすためと輸送費などに使われるエネルギー消費量などをふくむ)は一般の普通ガソリン車一台を作るのに必要な化石燃料の16倍だという報告もあるようです。
そんな難題をかかえている時代に、みなさんの目に入ってくる電チャリが、みずからの存在をひけらかすことなく、つまり「ドヤ顔」をすることもなく、ひっそりと大都会の日常生活に溶けこんで、あたりまえのように街路を走っているのですから「謙譲の美徳」ということばを思い浮かべないではいられなくなります。
じっさいにはたぶん「驚異の必需品」なのです。
もっともっと社会のすみずみにまで、また、ひとりびとりにまで行き渡ってとうぜんのお道具だとおもいますし、なるべく早くそうなって、もっともっと安く手に入れることができたらいいのに、と願っています。
もちろん、電動アシスト自転車ではなくて、純粋に人力そのもので移動できる自転車こそが、もっとも脱炭素社会の実現に貢献していることは言うまでもありませんが…。
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