はじめてその女が姿をあらわしたのが、いつごろだったのか、正確な時期がどうしても思い出せない。
それに、姿をあらわした、とはいっても、わかっているのは、あくまでも、その女の声だけなのだから……。
3、4歳のころ、茶室のすみっこで、パチパチと炭のはじける音に耳をすませていたときに、その音のすきまから、なにか人間の声のようなものが聞こえたような気がしたことはあった。
けれども、はじめて、その女のおしゃべり(chat)にはっきり気がついたのは、たぶん、小学校の4年生ころだったかもしれない。
女の子たちのあいだで鉄棒の足かけ前回り(あしかけまえまわり)が流行していたころだ。
まわるたびに、血液が頭に流れこんでくるのを感じ、それと同時に下腹部の奥がくすぐったくなった。それがいつのまにか熱をおびた摩擦感に変わり、それまでに知らなかった〈不思議な気持ちよさ〉が背すじをのぼってきた。それが目尻のあたりから後頭部にかけてひろがったとき、耳もとでだれかが『もっと、もっと』とささやいているのを耳にしてドキッとした。
また、女学院のクリスマス・ミサで、クラスメートの女の子たちが、まるで催眠術にかけられたかのように、もしくは、知らないあいだに幻覚剤をのまされたかのように、ふだん見せたこともない憧れの目をかがやかせて異国の宗教儀式に参列しているのに気がついたとき、なんだか自分だけがおきざりにされてしまったかのようなさみしさと、みんなに裏切られたかのような痛みがやってきたのだけれど、ちょうどそのときも、謎の女の声がずっと『あなたは、あなた。みんなは、みんな』とつぶやいていたような気がする。
東京の大学に通いはじめたころには、すでに文学少女を卒業するくらいに本を読みあさったあとだったので、自分の頭の奥から聞こえてくるおしゃべりが自意識のせいなのだということはちゃんとわかっていた。
それでもなにか起こるたびに『いつもこうだから、やっぱりこうなるのよね』とひときわ目立つ声で忠告する例の女だけは別だった。
いまのは誰のおしゃべりなのだろうかと一瞬あたりを見回したくなるくらいにリアルなのだ。
あれは自意識の声ではなくて、ほんとうにだれか別人の声なのにちがいない。
女学院をズル休みしてクローゼットにとじこもっているあいだ、ずっとその女のおしゃべりが聞こえていた。
姉から「バカ、マヌケ、ノロマ」と罵倒されているあいだもその女のおしゃべりはやまなかった。
彼氏の話に夢中になっている女ともだちを、ぼんやりと見つめているあいだも、その謎の女はしゃべりつづけていた。
バスの後部座席にすわってゆられているときもその女は黙らなかった。
満員電車のなかでもその女のおしゃべりは聞こえていた。
自慰にふけっているときにもその女のおしゃべりはつづいた。
そして、さんざんその謎の女がおしゃべりしたあと、おしまいのことばは、たいてい『うん、だからそうなのよ』とか『うん、やっぱりそれでいいのね』とか『うん、だからダメなのよ』だった。
わたしは、いつのころからか、その女を〈strange chatty woman〉と呼びはじめていた。
とはいっても、わたしはけっして気が狂っていたわけではないと思う。
じっさい誰とでも気軽に話すことができたし、いたってふつうの日常生活を送っていたからだ。
なぜかといえば、わたしのまわりを行き来していた人々や、カフェでわたしの目の前にこしかけていた人や、わたしとベッドですごしたことのある彼女や彼氏も、みな頭のなかでは、四六時中そういう声が聞こえていたのにちがいないと思っていたからだ。
みんな、わたしと同じように、頭のなかのだれかとチャット(おしゃべり)をかわしていたのかもしれない。
ただ、それを聞くことは、ほかのだれにもできない。
わたしと肩をふれあわせて歩いているのにもかかわらず、その友だちの頭のなかがじっさいにどうなっているのか覗き見ることはできないし、その頭のなかに聞こえているかもしれない声をわたしは死ぬまで聞くことができないのだ。
また、電車のなかで手のひらの上の小さな画面を見つめている人々の頭のなかでも、それぞれ〈strange chatty woman〉や〈strange chatty man〉がおしゃべりをしつづけているのかもしれないけれど、その声は、本人のほか、だれも聞くことができない。
だから、わたしたちは、ひとりびとり、孤立したドームのなかで生きて、孤立したドームのなかで死んでいく生き物なのだ。
みんな、それぞれ、秘密のおしゃべり相手をもっているのにちがいない。
わたしの場合、ときには、まったく聞きなれない声を耳にすることもある。
そのため、まったく別の女があらわれたのではないかと思っておどろいたことすらある。
また、温泉宿に泊まったとき、部屋のそばを流れるせせらぎの音にまじって、いままで耳にしたことのないささやき声が聞こえたことがあるし、ついこのあいだ自動車の窓をあけて風を受けながら聞いた女の声にも聞きおぼえはなかった。
朝のベッドで身を起こしたとき、キッチンから新しい声が聞こえてくることがあり、キッチンへ行くと、となりの部屋から聞こえてきた気がして、ドアをあけると、窓の外へ飛び出して消えてしまう。
と、こんなことを書いてきたけれど、その謎めいたおしゃべり女の声がほんとうに四六時中聞こえていたわけではない。
セクスの快楽に夢中になっていたころ、頭のなかでは、はじめ、数人の女たちがうるさいくらいにおしゃべりをしつづけているのだけれども、肌がうっすらと汗ばみ、動悸がはげしくなって首のあたりから頬にかけて肌が熱をおびてきたとき、完全ともいえるピュアな静寂がやってくることがほとんどだった。
自分がこの世にいることすらわからなくなるほどの静寂。
自分の体が、いま、ここにあることすら忘れてしまうほどの、あのピュアな静けさ。
また、深夜のキッチンテーブルで詩を書いているときや、キーボードをカタカタさせながら散文を書いているときなど、ふと頭をあげて、長いあいだ、その完全ともいえるピュアな静寂のなかにいたことに気づかされて、おどろいたこともあった。
二度とおとずれない時間だと思った。二度と味わえない感覚だと思った。
それはオーガズムとおなじように、もしくは、流れつづける谷川の水のように、手のひらですくいとろうとしても、すぐさま指のすきまからこぼれ落ちてしまい、その快楽の記憶はあっという間に消えさってしまう。
だからこそ、ふたたび、あの感覚を追い求めて文章を書きはじめるのかもしれない。
快楽は、美しく、ピュアで、はかない。
だからこそ、もういちど、なんどでも、欲しくなるのにちがいない。
どうしても、あのときの快楽をもう一度、と願う。
あの快楽が永遠につづけばいいのに、という不可能な望みを抱いてしまう。
けっきょく、ひとりびとりの頭のなかに聞こえているおしゃべり相手は、他人には永久に知られることのない相手なのだから、その声が聞こえないときの静けさがどんなものなのかを知ることすら、ほんとうはできないのだ。
わたしたちヒトは、みんな、そういう孤立したドームのなかに生まれてきて、その孤立したドームのなかで一生をおくり、その孤立したドームのなかで死んでいくのにちがいない。
それは悲しいことかもしれないけれど、それだけに、美しく、ピュアで、とても価値のあることにも思える。
だからこそ、わたしはあなたの体のぬくみが好きなのだ、きっと。
だからこそ、わたしはあなたの胸に耳をおしつけて、鼓動を聞いているふりをしながら、ほんとうは、あなたの頭のなかのおしゃべり女やおしゃべり男の声を聞くことができるのではないかと、どきどきしながら耳をすませているのだ、きっと。
あの完全なるピュアな静寂がおとずれるのを待ちながら……。
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