セクシュアリティの話題なのになぜ〈立ち位置〉が問題になるの?
いまのところ、この国では、戸籍と健康保険証の性別欄には、〈女・男〉という選択肢(せんたくし)しかありません。
ですから、たとえば「わたしは〈女・男〉もしくは〈女性・男性〉というカテゴリーにはあてはまらないし、あてはめられたくない」という方たちにとっては、選択肢がありません。
米国の13州のように、出生証明書や運転免許証に女でもなく男でもない「X」〈ノンバイナリー〉という第3の性別カテゴリーを法的に選択することができるところまではいたっていません。
けれども、健康保険証については、「やむをえない理由」がある場合にかぎって、裏面に性別を記載してもらうことができるのだそうです。
それに、いまでは、学生証や社員証などについても、運転免許証とおなじように「性別を記載しない」という心くばりをしているところもふえてきました。
また、ゲームサイトやショッピングサイトでアカウントを取得するような場合、性別欄に女性・男性というカテゴリーにはあてはまらない〈その他〉という選択肢を提供している会社なども見かけるようになってきました。
ステキなことだとおもいます。
では、もし「わたしはバイセクシュアルです」とまわりの方に打ち明けた場合には、どうでしょう?
たとえば、わたしの場合、戸籍や健康保険証に記載されている性別が〈女〉であることにはなんの不都合も感じませんし、身体学的に女に生まれてきて、見た目もそうであることに違和感をおぼえることなく自分を〈女性〉だとおもっています。
ただ、わたしにとって、恋愛・性愛の対象が、女性と男性の両性だということだけで。
ですから、「わたしはバイセクシュアルです」と打ち明けることは、彼女とわたし、彼とわたし、友だちとわたし、両親や兄妹とわたし、など、とてもパーソナルで、しかも限られたつながりの場での〈立ち位置〉(standpoint)を伝えたことになります。
ただ、戸籍や健康保険証に記されている〈女〉という性別にたいして不便さを感じたことはないとはいっても、「わたしはバイセクシュアルです」と告白することは、ある意味、ちょっぴり〈うっとうしい〉ことであり〈わずらわしい〉出来事のひとつになるかもしれません。
もしかしたら、それを打ち明けたわたし本人だけではなく、それを知らされた人たちにとっても〈ウザったい〉と感じられることが起きるかもしれないからです。
それまで、なんの波風も立たなかった女ともだちとわたし、彼氏とわたし、または夫とわたし、あるいはそのことを打ち明けられた方たちとの関係に、とつぜんの変化がおとずれるのは、しかたのないことかもしれません。
しかもそれはけっしてステキな変化だけではなくて、自分が望んでいなかった結果をもたらす変化かもしれないのです。
でも、〈打ち明ける〉ことによって、いままで見えなかった、もしくは、いままで気がつかなかった、愛する人や友だちや家族や知り合いの心の奥に隠されていた、ほんとうの気持ちや考え方にふれることができるかもしれません。
何ごともないのは何も見えていないため?
順風満帆(じゅんぷうまんぱん)ということばがあります。
船が追い風をうけて、なんの問題もなく目的地をめざしてすすんでいるように見えるとき、その船の持ち主や船長や一等航海士の方たちが、みんなの見えないところでなにをしているのか、また、その船の乗組員の方たちに必要な食料や燃料の備蓄がどのようになっているのかは、あまり問題にはならないものなんだよ、と幼いころ伯父に教えられました。
小石が投げこまれて、静かだった湖面にさざなみがたったとき、はじめて、自分たちが現実だとおもって見ていた風景が、じつは水面(みなも)に映っていたまぼろしだったということに気づかされるのだ、と。
もともと〈真実〉は平穏無事なときには顔を出したがらない性質をもっているからね、と言われました。
それとおなじように、はっきりとした〈立ち位置〉(standpoint)を示したとき、対人関係のベクトルとバランス、というか、相手の方との力関係に変化がおとずれるだけではなくて、同時に、その立ち位置を認めてもらうための〈責任〉というものが生まれてくるかもしれません。
それにくわえて、まわりからは、わたしが伝えた「わたしはバイセクシュアルです」というあり方にたいする〈一貫性〉(いっかんせい)を問われるようにもなるでしょう。
でも、あくまでも個人のセクシュアリティにかかわることでしたら、それはパーソナルな問題ですし、プライバシーに属することだとおもっていますので、責任を問われても一貫性をもとめられても、けっきょくは、わたしがおつきあいしている相手の方々との限られた関係のなかだけでのことでしょう。
ただ、そうはいかない場合があります。
たとえば、旅客船や貨物船やヨットなどの船長さんでしたら、難破した船や漂流している船からのSOS信号をうけた場合、海事にかかわる法律にしたがって、とうぜん海難救助に向かわなければいけないでしょうし、自分の船が事故にあったときには、乗客と乗組員の全員を救うために全力をつくして、沈没しそうな船から離れるときには、船長さんがいちばん〈最後のひとり〉であるのはとうぜんのことでしょう。
他の乗組員よりも高い給与をあたえられ、それなりの社会的地位をあたえられているのは、みなさんもご承知のように、その役職(post)と地位(status)を認めさせるだけの能力をもっていて、しかもそれだけの責任を果たしている人だから、というのがその理由ですし、ヒトという生き物が集団生活をはじめてからの長い歴史のなかでつくりあげてきた掟(おきて)のひとつでもあります。
それは、会社の社長さんでも国の大臣さんたちでも、みなさん、おなじことですし、そのことについては、みなさん、ご存知のはずです。
その役職についているということは『その役職が要求する責任はわたしがとります』という〈立ち位置〉の表明でもあるのですから。
そういう方たちが、時と場合によって、その責任を果たしたり果たさなかったりするようなことになったら、たいへんおかしなことになります。
それは公共に影響をおよぼすことですし、法律にかかわることですから、とうぜん〈公〉(おおやけ)の場での責任にもなります。
つまり広く世間一般にかかわる問題になってしまいます。
ヒトが〈社会的動物〉であることの意味とは?
でも、みなさんに「わたしはバイセクシュアルです」と告げたとしても、それはあくまでもわたし個人のことなのだから、そんな責任が生じることはないのでは、とおもわれる方がいらっしゃるかもしれません。
さきほど、個人のセクシュアリティにかかわることは、パーソナルな問題で、プライバシーに属することです、と言いましたし。
けれども、言ったことにたいする〈責任〉と、そのことからくる行動の〈一貫性〉が問われるのは、人と人との関係のなかでは、どうしてもしかたがないことなのです。
読者の方々も、学校で、『人は社会的動物である』というアリストテレスのことばを耳にしたことがおありかとおもいます。
アリストテレスにとって、ヒトはみずからが作り出した社会(文化・文明)のなかで生きているのだから、とうぜん他人との関係なくして生きることはできないし、また、ほかの動物たちとはちがって、より善い社会をつくろうと努力する性質をもって生まれてきた生き物なのだ、というのがそのことばの意味だということです。
それからほとんど2400年にもおよぶ長いあいだ、さまざまな文化の変化という風雪にたえながらも、この『人は社会的動物である』ということばはいまだに語りつがれていますので、国や時代がちがっても、『うん、たしかに言えてる』とうなずかせるだけの真実が秘められているのでしょう。
ところで、アリストテレスにとってもっとも大切だったのは、おしまいのほうの「ヒトはほかの動物とはちがって〈より善い社会〉をつくろうと努力する性質をもって生まれてきた」という部分だといわれています。
くどいようですけれど、そういう社会的動物でもあるヒトにとって、人と人とのかかわりのなかでは、発言したことにたいする〈責任〉と、その発言によって生じる行動の〈一貫性〉が問われるのは、どうしてもしかたのないことなのです。
あなたおひとりではなくて、あなたのお相手がいるわけですから。
たとえば、彼女や彼にバイセクシュアルだと打ち明けたのはいいけれども、両親や世間からの拒絶や反発や批判がこわくて、そういう人たちの前では、バイセクシュアルであることを隠してウソをつきとおす、というようなときに、わたしの彼女や彼から、わたしの一貫性が問われるのはとうぜんのことかもしれません。
「え? じゃ、わたしって、あなたにとって、なんなの?」と責められてもしかたがないことだとおもいます。
そもそも、これをお読みにならなくても、みなさんは、ふだん、学校や会社などで、先生や上司の方針に従わなければいけないときや、TVニュースやソーシャルメディアで〈炎上〉などが発生しているとき、責任の重さと一貫性の大切さを、じかに経験して学んでおられるのではないでしょうか。
「あのセレブ、このあいだ言ってたことと、まるでちがうことやってるわよね」
「あの政治家はコロコロと立場を変える日和見主義者(ひよりみしゅぎしゃ)さ」
「あの作家はたんに移り身が早いだけの変節漢だよ。思想家なんてもんじゃない。まったく信用がおけない」
「あの部長、いきなり方針を変えるから、ほんと、仕事がやりにくいわ。だから、どっちなのよ、はっきりしてほしいな」
このように、〈立ち位置〉からくる責任と、言ったことと行ったこととの〈一貫性〉の関係からは、こみいったデリケートな事情(sensitive matters)が生まれてきます。
社会生活をする上では、というよりも集団生活をする上では、どうしても「あの人の言動にはほんとうにブレがない」という価値が上位にくるのはしかたがありません。
つまり、ブレのない結果を出すことのできる方が、責任のある役職をあたえられるのは、とうぜんのことだとおもいます。
でなければ、なにか問題がおこったとき、責任の所在(accountability)がはっきりしなくなって、解決するための手がかりすら見つからず、組織や社会は混沌(こんとん)におちいり、ひとびとは混乱(こんらん)におちいるからです。
さきほど述べましたように、みなさんは、日ごろから、学校や会社などで、その〈いきさつ〉をじっさいに経験なさっていることだとおもいます。
そして、この責任と一貫性とのバランスから生まれてくる〈信頼〉は、心理的・倫理的に大切なよりどころになるだけではなくて、企業コンセプト・商品イメージ・ブランディング戦略など、ビジネスを大きく拡げるために大切な〈信用〉づくりにも欠かせないものでしょう。
一貫性があるかないか。信頼できるかどうか。
集団のなかで、そして社会全体にとって、これらがとても大切な価値になっているのは、そういう理由があってのことなのかもしれません。
一般的な〈立ち位置〉の外へ身をおくとは?
でもこのような〈身の振り方〉はなんとなく〈きつい〉のでは?
たしかに、それは、ツラくて、重たくて、ウザったいことかもしれません。
でも、ちょっと考えてみればわかることなのですけれども、立ち位置を示さなければ、もとからそのような責任は生まれないとおもいます。
だれでもないだれかでいればいいのですから。
なにをするにしても身分証の認証が必要なこの社会で、ほんとうにそんなことができるのだろうか、とおどろかれた方もいらっしゃるでしょうけれども、性自認という概念(がいねん)をあつかうときには、それが可能なのです。
たとえば「わたしは女・男のカテゴリーにはあてはまらないし、あてはめられたくない」という考え方など、あきらかに、責任と一貫性の問題が生じるような〈立ち位置〉の外へ身をおいているのではないかとおもわれるからです。
あなたは女性なのか男性なのか、という選択肢を前にして、「選択はしないし、できないし、選択されたくない」という選択をしていることになるからです。
それは、もしかしたら、一般のひとびとからすると、〈態度を保留〉しているのと同じに見えるかもしれません。
つまり「その場では決められないし、決められたくないので、その選択は先にのばしたい」と言っているのと変わらないのでは、と。
ほんとうは、そんなにシンプルなことではなくて、「わたしって、なに?」というアイデンティティの問題に深くつながっていることなのですけれども、とにかく、じっさい、そのようにご自身のセクシュアリティをとらえている方たちがいて、その方たちはノンバイナリー(non-binary people)と呼ばれています。
べつの言い方をしますと、「わたしはわたしを〈女か男か〉という二項対立(binary opposition)による考え方や価値観のなかではとらえていないし、とらえられたくない。わたしは女でもなく男でもなく、ただ、わたし自身なのだ」という自己認識をもっている方たちのことです。
けれども、責任と一貫性の問題が生じるような〈立ち位置〉の外にいるということは、逆の見方をすると、どこにも自分の居場所がないような孤独と不安にさいなまれる可能性にも身をさらしていることになります。
なぜなら、この社会では、いまだに女・男という二項対立の概念によって、さまざまな法律がつくられているだけではなく、トイレをはじめとして、洋服や小説や絵画や音楽や映画、また、その他もろもろの〈女性向け〉あるいは〈男性向け〉の商品(自動車や自転車やマンションやアパートなど)が日々生み出され、その二項対立のパラダイム(時代のスタンダートになっているモノの見方やとらえ方)の影響のもとで生活をしているわけですから。
ということは、責任が生じることもなく、一貫性を問われることもない存在とは、人と人とのかかわりからできあがっているこの社会では、ある意味『透明人間』(The Invisible Woman/Man)のような存在であって、その方たちが味わっている孤独と心の痛みは、ほんとうにたいへんなものだろうと察せられます。
なんども聞いていただいているように、個人のセクシュアリティにかかわることは、あくまでもパーソナルな問題ですしプライバシーに属することです。
でも、そうはおもっていても、いま説明しましたように、密林のように複雑に入り組んだ公(おおやけ)のシステムそのものが、ときに、わたしたちひとりびとりの自由な判断と可能性をはばむように枝葉をからめてくることがあって、知らないあいだにわたしたちをその場に足止めさせていることだって、あるのかもしれません。
パラダイムは思考にとっての寄生虫?
ところで、〈パラダイム〉を生き物にたとえると、どんなものになるのでしょう。
SF映画『エイリアン』をごらんになった方は、8本の節足をもつ「顔面張り付き虫」(フェイスハガー)をご存知のことだとおもいます。
あのカニとクモを交配させたみたいな地球外生命体(ゼノモーフ xenomorph)が、わたしたちみんなの顔にへばりついて、みんなの体の奥深くへ触手を食いこませつつ、わたしたちが気づかないうちに、いま生きている時代に特有なモノの見方考え方を植えつけ、それにしたがうように操作していたとしたら?
わたしはそんなヒトの思考に寄生する生命体みたいなものをイメージして、気味の悪さにゾクゾクしながらも、こころのどこかでは楽しんでいます。
でも、ほんとうはそんなに恐いものではなくて、パラダイムとは「知らず知らずのあいだにわたしたちをうながしているこの時代に共通するモノの見方やとらえ方」のことだろうとおもいます。
つまり、パラダイムは個人の思考に〈寄生〉しているというたとえはまちがいで、わたしたちひとりびとりの思考とは〈共生〉関係にあるというのが正しいのでしょう。
ですから〈パラダイム・シフト〉というのは、その不思議な生命体がわたしたちの顔からポロリと落ちて死んでしまった状態を想像なさったら良いかもしれません。
いままでずっと信じていたモノの見方やとらえ方がとつぜん失われて、通用しなくなってしまった状態のことです。
いままでの「あたりまえ」が、もう「あたりまえ」ではなくなってしまう状態、それがパラダイム・シフトなのだとお考えになればわかりやすいかもしれません。
拒食症(アノレクシア)が教えてくれたディスフォリア
「わたしは女性もしくは男性のどちらにも分類・限定(ラベリング)されないしされたくない」という性的マイノリティの方たちを、海外では、ノンバイナリー(non-binary)と呼んでいることは、すでにご説明したのですけれど、読者のみなさんのなかには、「みずからを女性・男性のどちらでもない存在としてとらえている」といったときの、『とらえている』ということばに、なんとなくひっかかりをおぼえて、ずっと首をかしげてこられた方がおられるかもしれません。
そもそも自分の性別をどのように『とらえているか』なんて悩む前に、自分の裸身を鏡に映してみたら、自分が女か男か、なんてひと目でわかるのでは?
たぶん、大多数の方たちは、この質問がそのまま答えだ、とおっしゃるかもしれません。
なぜなら、セックスvsジェンダー(メス・オスvs女らしさ・男らしさ)のちがいについて、いままで違和感をおぼえたことがなく、また、身近にそのような方がいないために、いちどもそのことについて考えたり悩んだりする機会がなく必要もなかった方たちにとっては、たぶん、鏡の前で自分の裸身をながめてみれば、女でもなく男でもない、というような考えが生まれるはずがないし、まったく理解できないというのは、いたってとうぜんのことかもしれません。
わたしもそうでした。
ただ、好きになる相手が両性に向いていて、しかも性愛の対象も両性ですので、そのことで少女時代には悩んだりしましたけれど、自分が女に生まれてきて社会から女性だとおもわれていることに違和感をおぼえたことはありません。
トランスジェンダーの方を悩ませている体と心の「ズレ」とか体と心が「しっくりこない」という感覚をはじめて身近におぼえたのは、1980年代にカリフォルニア州で暮らしていたとき、若い女性たちの命を奪っていくアノレクシア(拒食症)を知ったときです。
つきあっていた女の子がアノレクシアを発症して、どんどん痩せていき、けっきょく入院しなければいけなくなるところまで悪化したのです。
清潔で努力家で良い子(good girl)の代表みたいな子で、ときどきドキッとするほど甘えた笑みをみせる金髪の女子大生でした。
あらゆることに口うるさい母親がいて、彼女との関係がむつかしいと悩んでいました。
「わたし太ってない?」としつこいぐらいにたずねてくるので、いいかげん疲れてきて、あるとき、カリフォルニア大学バークレー校の学生食堂でいっしょに昼食をとっていたとき、手鏡を彼女にむけて「こんなにスレンダーなのに?」と笑い飛ばそうとしたら「あぁ、やばいやばい」と両手で頬をはさみこんでギュっギュっと力をこめたのをおぼえています。
休学して一年後、家族ぐるみのカウンセリングを受けて回復に向かっていると耳にして、ほんとうにホッとしたのですけれど、あのときにアノレクシアに関するさまざまな記事を読んで知ったことは、鏡の前に立った本人には、他人から見えている自分とはちがう自分が見えているのではないか、ということでした。
つまり、わたしたちの目に映っている彼女の体と、彼女自身の目に映っている彼女の体のイメージとのあいだに、大きな「ズレ」が生じているのではないかと考えられていました。
いくら痩せても、鏡の前に立った彼女の目に映るのは、太っている自分なのではないかと……。
わたしたちにとっては「あたりまえ」に感じられることが、そのような体と心の「ズレ」とか「違和感」を味わっている方たちにとっては、ほんとうに命にかかわるほどツラい出来事なのだということをはじめて教えてくれたのがアノレクシアでした。
それが性にかかわることになると、こんどは社会的な問題にまで大きくなってくるのだとおもいます。
裸になって鏡の前にたてば自分が女であるか男であるかなんて一目瞭然ではないか。
そのように、わたしたちのほとんどが感じる「それがあたりまえ」という考えに悩まされ、苦しめられ、ときには「それがあたりまえ」という考えにもとづいたわたしたちの、ほとんど無意識のおこないによって、さまざまな差別をうけたり、暴力をふるわれたりする方たちがいて、その方たちが声をあげはじめたことで、ようやくセックスとジェンダーのちがいに光があてられるようになってきたのが、いまの世界の状況なのです。
性別についてのベーシックな解説
いまでは、あらゆるところでLGBTQ(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー・クィアもしくはクエスチョニング)ということばが目に入ったり耳に入ってきたりします。
ただ、1980年代後半に米国で使われはじめたこのLGBTというイニシャルには、もとから、みなさんを混乱におとしいれるあいまいさがふくまれているとわたしはおもっていて、『【性の多様性】LGBTQ+におけるセックスとジェンダーの関係』のなかで、そのことをご説明させてもらいました。
たとえば、ヒトの性のあり方(セクシュアリティ)をあつかうときには、つぎの4つの要素を理解しているほうが便利だということなども……。
①セックス:体が決めた性別:「これがわたし」
②ジェンダー:心が決めた性別:「これがわたしのはず」
③性的指向:恋愛・性愛の対象:「わたしが好きになる相手」
④性表現:みんなに見せる心の性別:「これがわたしらしさ」
そして、大多数の方たちで、生まれもっての体が決めた性別(女・男)と自分の心が決めた性別(女性・男性)になんの違和感も抱かず、恋愛・性愛の対象が異性の方のことを〈シスジェンダー〉と呼び、なぜ〈ノーマルな人〉と呼ばないのかについても『【性の多様性】LGBTQ+におけるセックスとジェンダーの関係』のなかでご説明しました。
シスジェンダーにたいして、トランスジェンダーの方というのは、さきほど述べたように、自分の生まれもっての体が示しているメス・オスの特徴が、自分の心がおもう自分の性別〈女性・男性〉とくいちがっている、ズレている、どうしてもしっくりこない、という自己認識をもっている方のことです。
そして、そのようなズレの感覚からくる不安やストレスや違和感をおぼえることを性別違和(ジェンダー・ディスフォリア gender dysphoria)と呼んでいます。
ユニセックスと両性具有とジーンズの時代
ノンバイナリーという「わたしは〈女性・男性〉というカテゴリーにはあてはまらないし、あてはめられたくない」という考え方に目をむけたとき、なぜか1960年代後半から70年代初頭にひろまった〈ユニセックス〉というファッション表現と〈両性具有〉という考え方をおもいだしてしまいます。
両性具有というのは、男(アンドロ)と女(ギュノス)が分かれる以前の、男女一体化した姿をもっている、という意味のことばです。
1970年代のはじまりのころ、アンドロギュノス的な人というときには、内面的に、また見た目からしても中性的で、なんとなく性別不明のふんいきにつつまれた人、という感じでつかっていたような気がします。
主にアーティストや音楽家や作家の方たちのあいだでつかわれていましたし、そういう方たちがみずからアンドロギュノス宣言をなさったりしていました。
おもに、ご自分の〈視点〉と〈感性〉と〈思考〉の傾向が両性具有的だと説明なさっていたことが多かったようにおもいます。
あのころは、とにかく、女性・男性という性別役割分担から自由になろう、という動きが世界中にひろまっていました。
企業のCMにもフェミニズムの匂いがただよいはじめて、正確には思い出せないのですけれど、たしか『パパとママはお友だち』というようなキャッチコピーを耳にしましたし、1974年ころでしたか、映画『ザ・セル』や『ドラキュラ』では美術監督としてご活躍なさって、いまは亡き石岡瑛子さんがアート・ディレクターをおつとめになった、かの有名なパルコのテレビCM『女たちよ、大志を抱け』が、いまだにわたしたちの世代の女性の目には焼きついているかもしれません。
また、この国で女の子がスカートを身につけなくなりはじめたのは1960年代なかごろからだと言われています。
もとは金鉱探しの作業ズボンだったジーンズが、みるみるオシャレなファッションへと変化していって、女の子にとっても必需品(must-have)になっていくのは、1950年代なかごろから米国でひろがっていった黒人(かつてAfrican American ➡︎ いまはBlack American)の方たちの公民権運動にもかかわりがあるということです。
差別の撤廃(てっぱい)と法の下での平等と自由と権利をもとめた公民権運動に背中をおされて、そのような差別をゆるしてきた体制(establishment)そのものに大きな疑問符(?!)を投げかけたヒッピー運動とベトナム反戦運動がはじまります。
また、家庭内と仕事場での不平等にたいして女性たちまでもが声をあげはじめ、それが1960年代のフェミニズム運動へとつながっていく時代の空気のなかで、ジーンズ姿の女の子たちもふえていったのでしょう。
それが1980年代になると、そのような歴史の足跡はきれいさっぱりかき消され、アパレルメーカーは『ジーンズはファッショナブル』というイメージをひろめるための広告と宣伝とに力をそそぎ、『オシャレでカジュアルで自由』というブランディング戦略によって、みるみるグローバル企業へと成長していったのをおぼえています。
1980年代には、リーバイス(Levi’s)、リー(Lee)、ラングラー(Wrangler)、そしてエドウィン(Edwin)などのメジャーなジーンズブランドにくわえて、カウンターカルチャー的ともいえるゲス(Guess)とディーゼル(Diesel)がお目見えしてきます。
とくにGuessジーンズの場合、少年のように引きしまったお尻をもっている女の子でないと身につけるのはムリ、という差別的なサイズの選択肢しかなく、カリフォルニア大学のキャンパス内ではハードボディと呼ばれるみごとにひきしまったボディをもった女の子たちのご用達(ごようたつ)になっていました。
ほかの女の子たちにはその新しいブランドを教えたくないという理由で、あの逆三角形のロゴワッペンをお尻からはがしてしまうのが流行していましたが、逆に、真夏のビキニ跡のように真っ白な逆三角形が目立ってしまうので、けっきょくはひと目で〈Guessジーンズ〉だとわかるといった、ちょっぴりひねりのある見せ方をしていたのをおぼえています。
とにかく、ユニセックスと両性具有については、音楽家でアーティストのデヴィッド・ボウイ(David Bowie)の変貌の歴史をごらんになったら、あの時代の空気感がつたわってくるのではないかとおもいます。
また、作家ヴァージニア・ウルフの『オーランドー』(Orlando)で、男性だった主人公が、ものがたりの中ほどから身体的な女性に変身し、女性として生きていく、という作品をお読みになったら、1928年に出版されたものとはおもえない斬新さと、ジェンダー問題にたいする先見性をお感じになるのではないかとおもいます。
ただ、ユニセックスという表現方法と両性具有という考え方は、広く世間でみとめられている女性・男性という二項対立のパラダイムを意識しつつ『いや、そうではない生き方だってあるんだから』という、どちらかといえばアヴァンギャルドな立ち位置を強調していたということでは、いま話題にのぼっている〈ノンバイナリー〉とはすこしニュアンスがちがうのかもしれません。
なぜなら、性自認としてのノンバイナリーは、『女性・男性のどちらにも当てはまらないし当てはめられたくない』という、あくまでも個人的な〈認識〉をつたえるための立ち位置であって、ユニセックスのように目で見てわかる〈性表現〉の立ち位置ではないような気がするからです。
もちろん、自分を〈ノンバイナリー〉だと認めて、そのような立ち位置をはっきりと示したいとき、アメリカのさまざまな州でおこなわれているように、出生証明書や運転免許証や身分証明書(たとえばCalifornia ID card)の性別欄に『X』というノンバイナリーの選択肢があれば、みずからの性の定義と性の表現は、ともに法的な立場としてみとめられることになります。
内面のものがたりが暗示する行動
ただ、それでも〈ノンバイナリー〉という考え方には、なんとなく、わかりにくいところがあるようです。
本人にとっては納得のいくものかもしれないけれど、まわりのひとびとを混乱させてしまうなにかがある、と言われているのを、海外のニューズやビデオや新聞で、たびたび見たり聞いたり読んだりしていたせいかもしれません。
その理由を知りたくてこれを書きはじめたというのが正直なところです。
さきほど述べさせてもらったように「女性・男性という二項対立のパラダイムよって分類され限定されるのを拒む」ということから「わたしは女でもなく男でもなく、たんにわたし自身なのだ」という考えが生まれて、それがノンバイナリーの定義になっています。
その定義そのものが〈あいまい〉だとはおもいません。
そうではなくて、じっさいの人間関係で、おつきあいしている方を混乱させてしまう〈あいまいさ〉があるような気がするのです。
さきほども述べましたが、ノンバイナリーというのは、自分の性を自分がどのようにとらえているのか、という考え方を示しているものです。
これは性自認(ジェンダー・アイデンティティ)とよばれる個人の「内面のものがたり」なのですから、女性を好きになるか男性を好きになるか、それともトランスジェンダーの方を好きになるか、というような性的な指向(異性愛、同性愛、男性愛、女性愛、両性愛、あるいは無性愛など)によってなんらかの行動がうながされ、その結果として好きになった相手の方との現実のかかわりが生じてくるものではありません。
性自認(心が決めた性別)と性的指向(好きになる対象)とはべつのものなのですから。
あくまでも「わたしは自分をこんなふうに考えているから、みんなにもこんなふうにわたしのことを考えてもらいたいし、そのようにあつかってもらいたい」という表明(それとも願望?)なのだとおもいます。
たぶん、そういう考えを定義にしたものが「ノンバイナリー」というカテゴリーになったのだと考えたほうがわかりやすいのです。
2022年の時点で、米国の13州においては、出生証明書や運転免許証の性別欄に「女」と「男」にくわえて「X」(ノンバイナリー)という第3の性別を記載できるようになったことはすでに述べさせてもらいました。
けれども、ちょっと足をおとめになって、このことをゆっくりとお考えになってみれば、ひとつおかしなことに気づかされるはずです。
出生証明書や運転免許証の性別欄の「女」と「男」には、ヒト以外の動物にも共通の「Female」と「Male」(メスとオス)ということばがあててあります。
つまり、身分証明証における性別はあくまでも身体的性別による分けかたなのです。
生まれもっての性別、つまり、体によって決められた性別、のことです。
けれども、すでにご承知のように、ノンバイナリーというのは性自認のなかのカテゴリーに入るものです。
それを身体的性別と同じようにひとまとめにしていることが、いっそうの混乱を生み出しているのではないかともおもわれます。
たとえば、カリフォルニア州もしくはオレゴン州もしくはニューメキシコ州などの検問所などで自動車をとめられて、免許証を提示しなければいけなくなったとき、運転手の方が「X」〈ノンバイナリー〉を選択していたとしても、生まれてきたときに診断された「女」か「男」か「インターセックス」かという体の特徴(身体学的性別)は見た目のどこかに残っているとおもわれます。
たとえ、お化粧や着こなしによる性表現がみごとですばらしくても、幼いころからホルモン治療を受けていたり、性別適合手術を受けないかぎり、外見から判断できる身体学的性別から自由になるのは意外にむつかしいことだからです。
それにまた、じっさいにホルモン治療や性別適合手術を受けたいと望んでいらしたり、じっさいにそれらを行っているトランスセクシュアルの方ですら、見た目は生まれてきたときの性別から自由になることはできても、細胞内の性染色体(女=XX型・男=XY型)そのものをいじることは、ざんねんながら、いまのところ不可能です。
つまり身体的性別を変化させるのはほんとうにたいへんなことなのです。
ということは、警察官の方がその運転手を見たときに、その外見的特徴はあきらかに女(メス)もしくは男(オス)であっても、「X」を選択している運転手の方はそのどちらでもない者としてご自分を主張していることになります。
ここまでくると、ようやく、どうして身体的性別である「Female」と「Male」という分けかたにたいして第3の性別といわれる「X」(Nonbinary)という選択肢が生まれたのかがおわかりになるとおもいます。
彼女でも彼(She or He)でもなく彼ら(They)という人称代名詞で呼んでもらいたいというノンバイナリーの方たちにとって、「Female」もしくは「Male」という身体的性別や「Women」もしくは「Men」という社会的・文化的性別は、ともに意味をもたない「ナンセンスな」ことなのです。
だからこそ、Female・Male という選択肢のほかに、その分けかたそのものを無化する「X」という第3の性別をつくらせたのでしょう。
これが法的に認められたことはほんとうにすばらしいことだとおもいます。
でも、だからといって、現実の社会でそれが認められるかどうかは、また別の問題なのです。
なぜなら、たとえば、女に生まれてきて、ノンバイナリーと表明している方の恋愛・性愛の対象が、いつも変わらず「男に生まれてきて性自認も男性」の方だとしたら、はたから見て、その方はシスジェンダーでヘテロの女性と変わらないわけですから、たぶん、そのようにあつかわれることが多いかもしれません。
そして、もしも、身体的性別は女で「ノンバイナリー」を表明しているその方が好きになる相手が、いつも変わらず「女に生まれてきて性自認も女性」の方で、セックスする相手もそういう女性であったとしたら「わたしはレズビアン」と言ったほうが人間関係においては潔さ(いさぎよさ)を感じさせるかもしれませんし、その方の相手の女性も「これから先、とつぜん性的指向(男が好きになる、など)が変わるのではないか」という不安がなくなって、納得できるのではないかとおもいます。
つまり、ノンバイナリーという考えは、さきほど申しあげたように、自分がおもう自分とじっさいの行動(恋愛・性愛対象とのかかわり)とのあいだに、さまざまなバリエーションをつくりだすことができる、という意味では便利なものだとおもいますし、レズビアンとかゲイとかバイセクシュアルとかトランスジェンダーという分けかたそのものを無化してしまうような立ち位置であることは、かなりすごい(awesome)ことだとおもわれます。
はっきりした立ち位置をとることでうまれてくる責任と一貫性からも自由になれますし。
でも、そこには、思考(性自認)と行動(性的指向の実践)とのあいだにさまざまな〈ズレ〉が生じるきっかけがあって、だからこそ、逆に、集団社会のなかでの〈信頼〉と〈信用〉を得ることがむつかしくなるのでは、という不安がつきまとうのです。
つまり、ノンバイナリーにおける、この自認とじっさいの行動とのあいだのバリエーションの多さこそが、一般のひとびとを〈混乱〉させるもとなのかもしれなくて、ノンバイナリーの定義そのものが混乱を生んでいるのではないような気がしています。
制服がもたらす行動の暗示
ファッションはある時期ある場所でだけ輝くものです。
シャボン玉のように生まれては消えていくファッションには、はかない美しさとつかみどころのない楽しさが秘められています。
ファッションに一貫性は必要ありません。
変わり身の速さがファッションの魅力のひとつなのですから。
それとは反対に、服装で一貫性を要求されるものは制服(ユニフォーム)です。
ヒトの歴史のなかで、ある組織にとって、ひとびとの信頼と信用を得るためには制服が必要だとおもいついた人は、いろいろな意味で賢い人だったとおもいます。
制服は、わたしたちひとりびとりに、それぞれが属している組織のイメージと信頼と権威をあたえてくれる、ある意味では、見てわかる便利な身分証明書のようなものです。
けれども、同時に、その制服を身につけていることからくる責任と一貫性を背負わされてもいます。
つまり、わたしたちを拘束(こうそく)するものでもあります。
なぜなら制服はそれを着る人たちの行動を暗示してもいるからです。
たとえば、消防士の方たちの制服は消防活動を暗示しているし、ハリウッド映画のなかで、黒い背広に白かグレーのワイシャツを着て黒か赤のネクタイと黒いサングラスをかけていれば、たぶんスパイ活動を行なっているキャラクターにちがいない、といったように。
制服を着ているときには、なるべく「お利口さん」にしていないと、あとで、ちょっぴり痛い目にあうのは、そのためです。
たとえば、警察官の方が詰問中の女性の体にふれたりしたら、もう大変なニュースになるでしょう。
それと同じで、たとえば「わたしはバイセクシュアルです」と表明することは、〈バイセクシュアル〉という制服を身につけたことにもなるわけで、わたしの立ち位置には社会的なリスクがともなってくるようになります。
なぜなら、それはすでに性自認のレベルをこえて、じっさいの行動をともなう〈生き方〉を暗示していることにもなるからです。
みなさん、ふだんから気づいておられることとおもいますが、レズビアンとゲイとバイセクシュアルは、LGBTQということばのなかではゆいいつ〈行動を暗示〉しているカテゴリーなのです。
俗な言い方かもしれませんが、一般の方々が〈レズビアン〉ということばを耳にしたら女の子同士でキスしている場面などを想像なさるでしょうし、〈ゲイ〉と言われれば男の子同士が抱擁しているところを思い浮かべるかもしれませんし、〈バイセクシュアル〉と打ち明けられたらベッドで女の子と男の子にサンドイッチされているような場面を目に浮かべるのではないでしょうか。
ですから会社などでヘテロの女性を前に〈レズビアン〉だの〈バイセクシュアル〉だのと告白すると、理解のある方だと「あ、そうだと思ってた」とか「そうなんだ」ですみますけれど、下品な方だと「ええっ? わたしに興味もたないでね」などと言われるおそれもあります。
そうなると、けっきょく、告白というものは、自分を拘束して責任をおしつけてくる〈制服〉と変わらないのでは、と感じる人がいるかもしれません。
もしくは、そのようにはっきりとした〈立ち位置〉を選ぶことは、なんとなくウザったいことではないかとお考えになる方もいらっしゃるでしょう。
でもこのあたりの心の動きにノンバイナリーという性自認が生まれたいきさつが隠されているような気がするのです。
もしそうなのでしたら、それはそれで素晴らしい発想と考え方だとおもいます。
類別・限定されること、つまりラベリングされることから自由になりたい、という欲求が感じられるからです。
けれども、その考え方と欲求のなかには、先ほども申しましたけれど、「わたしの思うわたしの在り方」と「わたしの行動がもたらす他者から見たわたしの在り方」とのあいだに、けっこう大きな落差が生じてくるような気がしてなりません。
自分をどのように〈認識〉するかは本人の自由です。
他人が口をはさむことではありません。
それがプライバシーというものです。
頭のなかで考えていることまでをも、他者からコントロールされる社会になったとしたら、もう、映画『マトリックス』の世界になってしまいます。
小説や映画でたびたび使われる、カルト宗教団体や未来社会における洗脳(brain washing)がもたらす恐怖ストーリーは、みなさんにとってもなじみ深いものだとおもいます。
なぜ、なじみ深いものなのかと申しますと、頭のなかでおもうことは自由でも、じっさいの行動に移してみると、それほど自由にはできない、ということを、わたしたちはものごころがつくころから学んでいるからです。
この世には、約束事、ルール、規律、そして法規などがある、ということを学ぶからです。
いくら頭のなかではこうしたい、とおもっても、じっさいにそれを行動にうつしたら、とても痛い目にあった、というような経験を、みなさんもどこかで味わっておられるのではないかとおもいます。
たとえ〈思考〉には大空を自由にはばたく翼がそなわっていたとしても、〈行動〉は社会という大地に鎖でつながれています。
あなたの思いとわたしの思い、彼の思いとあなたの思い、わたしの思いとあなたの思いと彼女の思い。
それは、ひとりびとり、自由なのです。
そんな自由の翼をそなえた頭のなかの思いや考えまで、赤の他人からコントロールされたらどうなってしまうのだろう、という恐れが〈洗脳への恐怖〉の元になっているのではないでしょうか。
でも、また同時に、他人(stranger)が頭のなかで考えていることの〈見えなさ〉と、じっさいに他人がおこした想定外の行動との〈落差〉が、いつしかヒトがルールや法を必要とするきっかけになったのかもしれません。
文化人類学者の方々がおっしゃるように、たぶん、そのふたつの要素が、特定の仲間や共同体が感じる『よそもの』にたいする不安と恐怖のもとになっているのかもしれません。
とくに、定住が基礎になっていて、他人の出入りがすくない農耕民族にとっては、〈よそもの〉とか〈異種〉の者はけむたがられるということです。
別の言い方をすれば〈個性的〉で〈ユニーク〉あることは「良いこと」ではなく「不利なこと」であり「ヤバイこと」というような不可視(目に見えない)の縛りをたえず感じながら生きていくことにもなります。
相手が「なにを考えているかわからない」という不安と「なにをしでかすかわからない」という恐怖から生まれた掟が、長いヒトの歴史のなかで、いつのまにかルールや規律や法になってきたのかもしれません。
お話をセクシュアリティにもどしますと、自分自身の性別をどのように定義しているのか、という段階では、なんらむつかしい問題は生じてきません。
それを、家族や友だちに告白したり、学校やクラブや会社で打ち明けたり、あるいは、恋愛対象としてえらんだ相手につたえた後におこす行動で、はじめてノンバイナリーという〈性自認〉がノンバイナリーという〈在り方〉として他者の目にふれてきます。
わたしは、性自認とはあくまでもプライバシーに属することだとおもっています。
それを打ち明けて、好きになった相手をえらんだときに、はじめて見えてくるものなのではないでしょうか。
つまり、ラベルそのものが行動そのものを暗示しているレズビアンやゲイやバイセクシュアルとは、根本的にちがうものではないかと考えているのです。
Black Lives Matter と WOKE と ノンバイナリー
にもかかわらず、アーティストや音楽家やアスリートの方々などで、わざわざそのことを公表しなければいけなくなるのは、もしかしたら、どのような性自認をもっているのかということをインタビューなどで問われるせいかもしれませんし、または、そうすることが「ウォーク:WOKE」でファッショナブルで、時代の空気だと感じておられるせいかもしれません。
ご存知のように「WOKE」は目覚めるという意味のことば「wake」の過去形です。
でも、もとは黒人の方たちに固有なスラングからきているらしく、じっさいには「awake」(自覚する)ということばの過去形「awoke」とまざりあって「自覚した:目覚めた」という意味がふくまれているのだそうです。
大昔の映画『波止場』(1954年)のなかで主人公を演じたマーロン・ブランド、そしてまた、マーティン・スコセッシ監督の映画『レイジング・ブル 怒り狂う雄牛』(1980年)のなかで主人公を演じたロバート・デ・ニーロがいうセリフに『神よわたしはいままで盲目でした、けれどもいまはなにもかもが見えるようになりました』というのがあります。
「I was blind, but now I see」という聖書からのことばだそうです。
わたしはクリスチャンではありませんので、映画を見ていてはじめてこの意味深いことばを知りました。
そのことばを思い出させるのがこの「WOKE」というスローガンで、もとは1930年代に社会政治的な問題に目を向けようという「Stay Woke」という黒人の方たちのスローガンから分かれてきたもののようです。
それが最近では「ブラック・ライヴズ・マター Black Lives Matter」(黒人の命をないがしろにするな)という人種差別抗議運動に触発(しょくはつ)されて生まれた「社会や政治のさまざまな問題にたいして目を向けよう」という意味のことばとして黒人以外の方たちのあいだでひんぱんに使われるようになったのがこの「WOKE」でもあります。
ただ、米国での状況をながめていますと、じっさいのアクションをともなう〈社会政治運動〉というよりは、ツイッターやtiktokやインスタグラムやFacebookなどのソーシャルメディアをつかって「わたしはこんなに目覚めた人間なのよ」というような、承認欲求を満たすための自己表現につかわれることが多く、どちらかといえば、一時流行した「意識高い系」(1990年代に流行したものでは"politically correct")と呼ばれる方たちの言動を思い出させるものがあって、もしかしたら、文化のレベルでだけ、というよりも、ソーシャル・メディア上でだけの流行に終わってしまうのではないかしら、という不安を抱かされます。
そして、このような「時代精神」(ツァイトガイスト)のなかで、アイデンティティ・ポリティクスと呼ばれる政治運動によってつまみだされたもののひとつが、ジェンダー不平等問題(Gender Inequality Problem)なのではないかともおもっています。
たとえば、米国では、ハイスクールだけではなく、10歳くらいから13歳くらいの子供たちが通うミドルスクールにも、ジェンダー教育専門の先生方がおかれていて、まだ自我もかたまりかけていない子供たちが「自分は女の子なのか男の子なのかよくわからない」という性別違和(ジェンダー・ディスフォリア)を訴えると、保護者の同意もなしに、すぐさまホルモン治療をすすめるという現実が、ちかごろではメジャーメディアでもとりあげられ、またドキュメンタリー番組などでも目にふれるようになってきました。
それは「ジェンダー・アファーミング・セラピー:Gender Affirming Therapy」(本人が望んでいる性別を尊敬してそれを肯定するための治療)と呼ばれているのだそうです。
でも、同時に、保護者の同意もなしに、子供たちの希望をすぐさま学校が認めてホルモン治療を行おうとするのは、巨大な製薬会社からのリベートやワイロや金銭的サポートを受けているせいだ、という批判が出てきているようです。
そのために保護者から法的に訴えられているカウンセラーやセラピストたちがふえていると聞いています。
そもそも、第二次性徴期に入る前後からホルモン治療を受けさせなければ、子供たちがのぞむジェンダーが得られないし、自分の体と心との違和感からくるストレスのせいで、子供の自殺がじっさいに増加しているということが2010年あたりから言われはじめたらしいのです。
けれども、そのときにみちびき出された子供たちの自殺率も、政治家にはたらきかけるために製薬会社がつくりあげたものだったという証拠があがってきたらしく、ワイロの問題や薬づけの問題、そして利益を得るためには手段をえらばないという製薬会社の姿勢にもむすびついて、ジェンダー政治にまつわるさまざまな問題がとりざたされはじめています。
つまり、ジェンダー政治と「Woke」推進政策は、それにかかわる業界関係者に莫大(ばくだい)な富をもたらすということも明るみに出てきました。
また、そのようなセラピーを法的にも行うことができるようになったせいで、反対に『性別違和による自殺者が、保護者の同意なしにホルモンセラピーを受けることのできる州と、それを禁じている州とをくらべた場合、2020年の時点で、アメリカの12歳から23歳までの人口についていえば、保護者の同意なしにホルモン治療を受けることのできる州のほうが、10万人につき1.6人分増えている』というレポートが医学誌にもあがってきています。
わたしはいま日本に暮らしていますので、ネット上にあげられた文章でしたら読めるチャンスがありますけれど、映像に関しては、あくまでもYouTubeにアップロードされたニューズ番組やドキュメンタリー映画の一部しか見ることができません。
いまは、製薬会社と政治家と教育機関とのあいだを流れるお金の「こみいった事情」に足をふみいれるつもりはありませんけれど、そのうちそのようなドキュメンタリー番組を映画ストリーミングサービスのどれかで見れるようになるのだろう、とは期待しています。
とにかく、みなさんもすでにお気づきのように、「わたしはノンバイナリーです」と打ち明けても、そのことによってなんらかのリスクが生じるわけではありませんし、現実社会でじっさいになんらかの差別を受けたりするわけではありません。
レズビアンやゲイやバイセクシュアルのように行動を暗示するものではないので、たぶん「へぇ、そうなの? そういう問題にたいする意識が高いんだね」くらいの反応で終わるのではないかとおもいます。
ですから「口をにごす」というようなニュアンスで「自分の在り方をにごす」認識方法にもなるのでは、とおもっています。
つまり性別記載欄の「その他」とか「回答しない」を選択する在り方です。
それとはちがって、わたしがみずからを〈レズビアン〉とか〈ゲイ〉とか〈バイセクシュアル〉と告白するときには、たぶん、いま好きになっている相手に自分の真意をつたえたいからとか、家族や友人といるときにほんとうの自分とはちがうウソの演技をしつづけるのがイヤになったためとか、それを公表することで、あわよくば新しい仲間や恋人が作れないかしらといった計算がはたらいているときだとおもいます。
どちらにしても〈カミングアウト〉にはリスクがともないます。
くどいようですけれど、ノンバイナリーに関しては、それを告白したところで、あまり、たいしたリスクもなければ利益も得られないというのがほんとうのところだとおもわれます。
あくまでも自認の範囲なのですから、パーソナルな問題であって、プライバシーに属することですので、わざわざ口に出す必要もないのでは、という印象を受けます。
Love is Love のシンプルでパワフルなメッセージ
ところで、米国では、このノンバイナリーという考え方に触発(しょくはつ)されて、ちかごろでは「性自認そのもので性別を決めてしまってもいいのでは?」という意見までもが出てきました。
そのため、時と場所と気分と相手によって自分の性自認(女らしさ・男らしさ・男女両性らしさ・男女両性ではないらしさ、など)と性的指向(女性が好き・男性が好き・その両方が好き・そのどちらでもない人が好き・どんな性別も好きではない人が好き、など)が変化する、まるで液体のように流動的でしなやかな性的アイデンティティを可能にする「性的流動性」Sexual Fluidity という考え方までもが生まれました。
状況に応じて、つまり時と場所と場合(TPO)に応じて、自由自在に女性らしい・男性らしい行動やしぐさや服装などを使いわける人のことを〈バイジェンダー〉と呼ぶらしいのですけれど、これもその性的流動性のなかのひとつです。
『【性の多様性】LGBTQ+におけるセックスとジェンダーの関係』で紹介させてもらった〈デミジェンダー〉というのは、自分のなかの一部が女性であったり男性であったりノンバイナリーであったりすると考えておられる方のことですけれども、これもすべては性自認にかかわることでして、じっさいの行動とはかかわりがありません。
ご存知のように、性自認とは「わたしはわたし自身のセクシュアリティをこのように認識している」というシンプルでピュアでいたって個人的なことなので、なんども述べさせてもらいましたけれど、すべてはその方の頭のなかで起こっていることであって、それだからこそ、もっとも大切なプライバシーに属する問題なのではないかとおもいます。
ただ、この「性自認そのもので性別を決めてしまってもいいのでは?」という考えには落とし穴があって、いったん現実の社会でそれを実行しようとすると、まさに時と場所と場合(TPO)による問題が生じてくる可能性があります。
わかりやすい例をあげさせてもらいますね。
ここに生まれもっての性別が男(ヒトのオス)のカップルがおられるとします。戸籍上、おふたりとも、男ですし、身体的特徴も男そのものです。けれども、おふたりの性自認は女性なのです。つまりご自分は「女性」だとおもっておられます。
読者のみなさんはすでにお気づきのことでしょうけれど、つまり、おふたりはトランスジェンダーの方なのです。
ただし、ホルモン治療と性別適合手術には興味をお持ちでない方たちなので、トランスセクシュアルではありません。
このトランスジェンダーのおふたりは「自分たちはレズビアンカップルだ」と認識しておられます。
もし、このおふたりがレズビアンバーに足をふみいれたら、どうなるのでしょう?
お店の方はどのように対応したらいいのでしょうか? また、そのお店に遊びに来ている方たちはどのようにおふたりを受けとめたらいいのでしょうか?
また、このおふたりが「わたしたちはレズビアンだ」とゲイバーで打ち明けたとしたら、どのようなことが起こるのでしょう。
ジョークのひとつだとおもわれて笑ってすまされるかもしれません。
これがひとりびとりの頭のなかにある「思考」が、他者のまじりあった集団社会のなかで「行動」にうつされたときに出会うひとつの例です。
ノンバイナリーという性自認にはかかわりなく、その方がレズビアンなのかゲイなのかバイセクシュアルなのか、それともヘテロセクシュアルなのかは、けっきょく、その方の行動にあらわれるだろうとわたしはおもっています。
「自分とは何か」という質問の答えは、自分のなかでいくら自分について考えていても見つかるものではありません。
『他人は自分を映す鏡』という昔ながらのことばには真実がまじっているとおもわれます。
他人のなかにまじってこそ、はじめて自分がどういう人間なのかわかりますし、じっさいになにか行動をしたときにこそ、はじめて自分がどのような人間だったのかを知ることができるのではないでしょうか。
人の本性は行動によって決まる、とわたしはおもっています。
たとえば、幼いころから自分は内気で臆病でものぐさな人間だと思いつづけていた方が、崖から転落した観光バスのなかにぐうぜん乗り合わせていて、豪雨のなか、濁流にまみれながら、みずからの骨折の痛みをもろともせずに何人もの乗客を救い出したということがあったとしたら、その方はたぶん勇気と行動力と決断力のある人間なのにちがいありません。
性自認が「自分は自分のセクシュアリティをこう思っている」という考え方のことだとしたら「わたしは自分を黒人だとおもっている」という思いを容認する考え方があってもいいし、「わたしは自分が生まれもった国籍とはちがう国籍の人間だとおもっている」という考え方だって認められるべきだとおもいます。
お話をノンバイナリーにもどしますと、「わたしはわたしの性を、社会が押しつけてくる〈きみは女なのか、それとも、男なのか〉という二元論的な考え方の枠組みにはあてはまらない性として認識している」ということだと申してきました。
そのぶん、自分の恋愛対象(性的指向)については「かまわないで欲しい」という表明に近いものを感じてしまうとも書きました。
ただ、その性自認によって、どのような行動をするのかということになると、とうぜん自分以外の人たちとのかかわりが生まれてきますので、それなりの責任と一貫性が問われはじめるのはとうぜんだとおもわれます、とも言いました。
でも、ノンバイナリーという概念が出てこなければ、わたしたちがいままで「あたりまえ」だと感じてきた「女か男か、それとも女性なのか男性なのか」という考え方の根本的な部分に大きな疑問符が投げかけられることもなかったでしょうから、すばらしいパラダイム・シフトをもたらしてくれたことにまちがいはありません。
また、ノンバイナリーという性自認をもっている人の恋愛行為が、「一貫して二項対立的性別による一貫性はとらない」という立ち位置なのだとしたら、それはそれで、なかなか一筋縄(ひとすじなわ)ではいかない強さと賢さを秘めていて、興味をひかれてしまいます。
ところで、性的マイノリティの方々のあいだで使われているスローガンのひとつに『Love is Love』ということばがあります。
相手がたとえ異性だろうと同性だろうとノンバイナリーだろうと、そのひとを〈愛〉することにはなんらちがいがない、なぜなら〈愛〉は人を選ばないから、という意味のことばです。
好きになった相手、愛してしまった相手が、異性だった、もしくは同性だった、または両性だった、ただ、そのどちらでもなかった、というだけのことで、〈愛〉は〈愛〉であることに変わりはありません。
〈愛〉は〈死〉とおなじようにだれをも差別しないものです。
それとは逆に、世の中で出会う差別のほとんどは、無知がもたらす不安と恐怖から生まれてくるものではないでしょうか。
もしそうなのでしたら、わたしたちひとりびとりが心の奥に隠しもっている〈勇気〉だけが、そのような差別意識をほぐしてあげることができるのではないかと夢に見ています。
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