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執筆者の写真香月葉子

思考の実験室 其の3 | ひと言で1000ワット

更新日:1月4日




異議を唱えないことに同意してからは

風景までもが従順に見える。



過去にとらわれながら生きていくのは盲目で生きていくのと変わらないのかもしれない。



残酷であることの甘さ。慈悲を持つことの痛み。たとえ情欲と理性がひとつになることがあったとしても、生活はそのどちらをも許さないはず。



ささやきが聞こえてくるような視線。帽子からはみ出している前髪を上目づかいに指先でこすりあわせているときの、あの誘いかけてくるような視線。



青春は無表情の仮面をかむった千の顔です。

頭のなかで思ったこととじっさいに行うこととが、たとえ千マイル離れていても、その不器用さを防護服に変えることのできる臆病で繊細な心をもった魔術師。



ほほえみながらうつむかないで。せつなくなるから。



オリンピックゲームていうのは人生のパロディなのだとおもいます。

たとえば、バレーボールにしてもボクシングにしても野球にしてもサッカーにしてもアメリカンフットボールにしても、ようするにスポーツの試合というものそのものが人生のパロディなんです。

だって、はっきり勝敗がつくってことがどれほど奇怪でグロテスクなことかおわかりでしょ?

もちろんスポーツの試合は人生の縮図でもなく現実社会の写し絵でもありません。

スポーツの試合の結果には混沌がないんですから。

こんな不思議なことってあります?

だからわたしたちはみずからスポーツをしたり、スポーツのゲームを見るのがやめられないんでしょうか。

わたしたちヒトが壮大な見せ物(スペクタクル)を好むということは、わざわざローマ帝国時代の古代の円形闘技場(コロセウム)をもちださなくても、どこの文明にも古くからあった事実なのでしょうけれど、勝敗がもたらす「生」か「死」かというドラマにしても、じっせいの人生や社会の様相とはまったくかかわりがありません。

生きることで負けることもあれば、死ぬことで勝つことだってあるのですから。

「スポーツの勝敗はハッキリ目に見えてクリーンだ」ということばにもうなずけます。

人間関係という「政治」による影響をこうむることがもっともすくないからなのでしょう。

どの選手やボクサーを抜擢するかということには政治という力関係とコネが働くかもしれませんけれど、試合の結果というものは「誰の目にも明らか」なのです。

だからこそ「八百長」は犯罪とされているのでしょう。

たぶん、ヒトは、混沌を恐れ、忌み嫌うようになった生き物なのです。

いつ何が起こるかわからない自然の猛威にあまりにもいじめられてきたせいなのだとおもいます。

知性をもったせいでハッキリした答えを欲しがるようになってしまったのかもしれません。

忍耐力がないんです。

待つのが苦手なんです。

だから短い期間に勝敗が決するゲームというものをつくりだして、いつのまにかそちらのほうを好むようになったのです。



「線」の描き方を学ぶためにいつもじっと手のひらの皺(しわ)を見つめている人がいた。けっきょく自分の手のひらの皺ばかり描いているうちにおどろくほどエッチングがうまくなって、いつのまにか立派な版画家になってしまった。まったく嘘みたいな話だとおもわない?



誰かひとりを死ぬほど愛するというのはアナーキーな生き方かもしれません。だって親も家も友だちも国もすべてが吹き飛んでしまうかもしれないのですから。



知性はもっともずる賢い暴力なんです。自分の血を流すこともなく自分の手を汚すこともなく、頭のなかで考えたことだけを使って、思う存分大量殺人をくりかえすことだってできるのですから。



あの人は太陽みたいに孤独だった。たったひとりで燃えているだけなんだもの。






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