誰かのことばに傷ついたときや、ことばのイジメにあったとき、とても簡単で、具体的で、しかも、効果のある心の癒し方があります。
道具もなにも必要ありませんし、誰にでも、いますぐにできる治療法です。
まずは、お庭やベランダなど、ひとりになれる場所を確保してみてください。
開放感のある場所がおすすめです。
近くに公園のようなものがありましたらなおさら最高です。
スマートフォンはポケットかバッグへしまいましょう。
そして、いま目に見えているものを、じっさいにことばにしてつぶやいてみてください。
もっとも簡単なことばで。
「青空」とか「雲」とか「古いマンション」とか「サッカーをしているふたりの少年」とか
「犬をつれた少女」など…。
あやしい雲行きだな、とか、明日も暑くなりそうだな、とか、あの子供は寂しそうだな、こんな場所にきてこんなことしててなにか役に立つのかな、などという予想や感想や内面の声などは、なるべく無視するようにしましょう。
最初はむつかしいでしょうけれど、目に入ってきたものを、そのまま、すばやく口に出してみてください。それをほんの1分間でもつづけていると、だんだん頭の働きがシンプルでピュアなものへと変わってゆくのが感じられるようになるとおもいます。
「空」や「クルマ」や「少女」や「枯葉」などのような名詞と、ほんのわずかな「きれいな」とか「汚れた」とか「可愛い」などという形容詞だけで、目にうつるものをつぶやいてみるのです。
いま、ここにあるもの、そしていまここで、あなたの五感(視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚)に触れていること、それらを、そのまま、すなおに口にだしてみてください。
あなたのことばと、じっさいにここにあるものとが、すなおにつながっているのを感じとれるのではないでしょうか。
わたしたちは、ふだん、そのようにまっすぐにことばを使うことがむつかしい社会生活をおくっています。
しかもリアルタイムで。
「その椅子はわたしの椅子です」
「この時間はいそがしくてね」
「あのひとって正直ですよね」
このようにかんたんなことばですら、皮肉やイヤミや嘲笑がふくまれているかもしれません。
社会で生活をしていく上では、ことばの裏にくっついている、またはことばのすきまに見え隠れする、じっさいに言われたこととはちがう意味をも感じとることがたいせつで、それができなければ、なかなか〈ものごと〉とやらがうまく進みません。
つまずくことのほうが多いようです。
言われたことばをそのままにうけとっていると、あとでとんでもなく傷つけられることだってありますし、はんたいに、誤解や曲解によってたいせつな人をうしなったり、仕事がうまくいかなくなることだってあります。
頭にうかんでいることと、じっさいに口にしたこととが〈ズレ〉てしまう経験は、みなさんにもおありでしょう。
それがとうぜんのことのように社会生活を送っているのが現代のわたしたちなのですから。
そのために、ことばに傷ついて、心のどこかが疲れてしまうのは、しかたがありません。
ことばを使うことにも、ことばを理解しようとすることにも、おそらく疲れ切っているのでしょう。
ひとと会話をかわすことにすらうんざりしてしまうくらいに。
けっしてヒトという生き物にうんざりしているのではないと思います。
さみしくて人恋しいのにもかかわらず、ヒトが使うことばのせいで、心が傷つき憔悴(しょうすい)してしまっているような、そんな気がするのです。
だれかに言われたひとことのせいで、何時間も何日間も悩んだり苦しんだりすることだって、けっしてめずらしいことではありません。
ことばは、ときに、カミソリになります。
心の手足をばっさりと切断されることはなくても、心の動脈を傷つけられると、そのまま出血がとまらなくなるのはとうぜんです。
また、ことばの刃先には、たくさんのゴミがくっついています。
そのなかのゴミには有害物質がふくまれているものだってあるでしょう。
でも、ことばに傷つくことができるのはヒトという生き物だけだということも事実です。
ことばを発明することのできたヒトという生き物だからこそ傷つくこともあるのです。
これは大変な意味をふくんでいますし、とても大切なことだとおもいます。
つまり、ことばに傷つくということは、あなたやわたしがヒトという生き物だという証拠のひとつでもあるのです。
ことばに傷ついたら、ときには、目の前にある〈空〉そのものに〈空〉ということばや〈ソラ〉という音をつなげてみるのは、とても健康的なことかもしれません。
そのとき〈空〉は解毒剤に変わるような気がします。
たとえば、〈水〉のイメージを頭にうかべつつ〈ミズ〉とつぶやくのではなく、じっさいに蛇口をひねって〈水〉を手にうけながら「ああ、水だ」と口にだして言ってみると、もしかしたら、すがすがしいきもちになれるかもしれません。
そう願っています。
考えたこと、思ったこと、感じたこと、などをあらわすことばは、行動やモノをあらわすことばとおなじように、生活をするためには欠かせないことばです。けれども、そのなかには、かたちのないものをあらわすことばがたくさんあります。たとえ、モノとつながっていることばでも、さきほど述べたように、たくさんのゴミがくっついていて、なかなかまっすぐに受けとることができないことだってあります。
そんなことばにわずらわされている日々からそっとぬけだして、ときにはハッキリと目に見えるもの、手にふれることのできるもの、匂いのあるもの、耳できくことのできるもの、食べることのできるもの、などにことばをあたえてあげてください。
「おいしい」というかわりに「これはマフィン」とつぶやいてみてください。
「甘い」というかわりに「これはホワイトチョコレート」とささやいてみてください。
ことばにくっついている汚れや、さまざまなことばから受けた痛みや心のいらだちを、ひっそりと洗いおとしてくれるような、そんな気分にさせてくれるかもしれません。
自然はことばのクリーニング店。
お顔に風や陽ざしをうけながら「ああ、風だ。ああ、太陽だ」とおっしゃってみてください。
青空を見あげて「ああ、青空だ」とおっしゃってみてください。
夜空を見あげて「ああ、月だ」とおっしゃってみてください。
大きな声でなくてもかまいません。
つぶやきでもかまいません。
ほんのささやき声でもいいのです。
たとえ口にださなくても、声にしなくても、空はあなたのあたまのなかでは、おそらく〈空〉もしくは〈ソラ〉なのですから。
ときにはそのことを思い出すために声にしてみるのもたのしいかもしれません。
朝、めざめたとき、あなたのお顔を両手でつつみこんでみてください。
「これは、わたしの、手。この手にふれているのは、わたしの顔。いま、ここに、わたしが、いる」
そんなふうにあなたご自身を感じてみるのもたのしい出来事のひとつになるかもしれません。
いま、あなたの目に見えているこの世界は、あなたがここにいるからこそ、そこにあるのです。
あなたがいなくなると、あなたが見ているこの世界も、おそらく消えてしまうでしょう。
いま目に見えているこの世界は、あなたがささえているのです。あなたがつくりだしているのです。それはあなただけのかけがえのない唯一無二(singular)の世界なのです。
あたりまえのことなのに、ついつい忘れがちになってしまう、大切なことのひとつかもしれません。
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