コミュニケーションということばって?
セックスにはコミュニケーションが欠かせません。
セックスとコミュニケーション。このふたつは切っても切り離せないものです。
他人とのまじわりが生まれようとしているときに、コミュニケーションがなくては、なにもはじまらないからです。
もちろん「コミュニケーション」より以前に、もっと直感的に、ほとんど無意識としかおもえない力によって、わたしたちをセックスへと誘うものはあります。
わたしたちが「本能」とか「性欲」と呼んでいるものがそうです。
ときには、その理由が「恋」や「愛」と呼ばれるものに変わったり、「情熱」のせいだと言ってみたり、「容姿」そのものに誘われることもあったり。
または「お金」のためだったり「地位」を得るためだったり、ちゃんとした「お仕事」だったりするかもしれません。
その名のとおり「セックス・アピール」という謎めいたことばまでありますし…。
わたしたちがセックスをする理由はさまざまあります。
でも、ここでは、そのあとのこと、つまり、セックスをする段階になってからの話をしたいとおもいます。
たしかにコミュニケーションは大切です。
でも、セックスの場面で、どんなふうに「コミュニケーション」をとったらいいのでしょうか。
そこがいちばんむつかしいのです。
そもそも、この英語の「コミュニケーション」ということばは、いったいどこから来たのでしょう。
もとはといえば、「共有する」とか「共通のものを作る」というラテン語の「コミュニカレ communicare」ということばから派生した「伝える・参加する・結合する」という意味をもつ「コミュニカティオ communicatio」から伝わってきたものだと考えられているようです。
この「伝える・参加する・結合する」という意味そのものが、なんとなくセックスの行為を暗示しているかのようにおもえるのは、わたしの頭の動きが淫(みだ)らなせいなのでしょうか。
セックスを心ゆくまで味わうためにはコミュニケーションが大切、ということばは、セックスを経験したことのある方なら、ほとんど直感的にピンとくるアドバイスなのにちがいありません。
なぜなら、セックスそのものが、ヒトという生き物にとって、もっとも重要なコミュニケーションのひとつになっているからでしょう。
ときにはヒトの生死にかかわるほどの。
コミュニケーションの方法って?
では、ヒトという生き物がもっているコミュニケーションの方法とは、いったいどんなものなのでしょう。
大きく分けて、ふたつ、あります。
ひとつは「ことばによるもの」、もうひとつは「ことばによらないもの」、このふたつです。
①「ことばによるもの」は「話すこと」と「書くこと」のふたつです。
つまり、会話(話すこと)という聴覚情報と、文章(書くこと)という視覚情報です。
②「ことばによらないもの」には「ことばにならない声(うめき声やあえぎ声や叫び声など)」と「身ぶり・しぐさ・表情」などがふくまれます。
つまり、非言語(あえぎ声など)による聴覚情報と、ジェスチャ(身ぶり)などに代表される視覚情報です。
ただし、セックスをしているときには、さまざまな感情の高ぶりに理性がかき乱されて、ことばによるコミュニケーションをとるのがむつかしくなってきますので、ことばにならない声(あえぎ声やうめき声やその他の音)とジェスチャ(身ぶりやしぐさや表情)のふたつが、自分の気持ちや考えをつたえる上で、とても大切な手段になってきます。
とは言っても、このふたつの表現方法は、地域や国や時代によってちがってきます。
音の出る映画(トーキー Talkie)が発明されてからは、あえぎ声の出し方や、オーガズムの瞬間をつたえるときの声やジェスチャが、地域や国によってもちがうことを、世界中のひとびとが知ることができるようになりました。
たとえば、これはセックスについてのエピソードではありませんけれど、わたしが1980年代のカリフォルニア州で暮らしていたころ、指先で口もとを隠して笑う日本の女性の映像を見たことのあるアメリカの若い女の子たちから、「日本の女性たちは息の匂いを気にしているの?」とか「歯を見せたくないの?」とか「何かをたくらんでいるという意味なの?」などと問われることがありました。
そのたびにわたしは、日本では、その昔、とくに上層階級に属する女性が歯を見せて笑うのは「はしたない」ことで「つつましくない」行為だと考えられていたことがあって、それがマナーのひとつに数えられるようになったのです、と答えていたのですけれども、なかなか納得してもらえないことがありました。
日本では、その昔、「おしとやか」(ladylike)に見えることが、女性の育った経済的クラスや教育水準を伝えるときには大切だったから、と説明しても、そのことがどうして口もとを隠すしぐさと関係があるのかわからないと言われ、わたしの英語力の足りなさから、日本における「おしとやか」(well-bred)という概念そのものを理解してもらうのが大変だったことをおぼえています。
それが1990年代ころから、ハリウッド映画に出演している女優さんたちが、(たしか『ドラキュラ Bram Stoker's Dracula』(1992年)の中でのウィノナ・ライダーだったとおもいます)日本の昔の女性のように指先で口もとを隠す笑い方を見せていたような記憶があります。
とはいっても、あの物語は19世紀後半から20世紀初頭にかけてのロンドンが舞台になっているため、彼女がそのような「おしとやか」(Ladylike)な笑い方を演じていたのはとうぜんかもしれません。
ほかにも、たとえば、18世紀フランスの貴婦人たちは、笑うとき、噂話をするとき、秘密を打ち明けるとき、あるいは相手の方にキスを送るときなど、手にした美しく高価な扇(おうぎ)を使っていたことは、フランス革命当時を描いた映画をごらんになった方はごぞんじのことだとおもいますので、けっしてめずらしいことではありません。
じつは、欧州では、1970年代から、ナスターシャ・キンスキーが『今のままでいて Stay as You Are』(1978年)という映画のなかで、指先で口もとを隠すしぐさで、可愛らしくも妖しい微笑をふりまいていました。
ただ、彼女の場合は、日本的な「おしとやかさ」とは正反対に、「キュートなイタズラっぽさ」を表現したり、さりげなく「あなたが欲しい」という気持ちを表現するための小道具だったようにおもいます。
いまは、日本のアニメの影響をうけて『コスプレ』にお熱をあげている海外の女の子たちが『猫耳』をつけて『ahegao(アヘ顔)』の写真や動画をインスタグラムやTikTokにアップロードする時代です。
彼女たちにとっては『Kawaii』女の子になるということが承認欲求を満たすためのいちばんの近道なのかもしれません。
日本のアニメの世界的な普及は日本の経済力の象徴にもなっているかとおもいます。
そんな時代のなかを生きている若い女性たちからしたら、「おしとやかさ」だの「つつましさ」だのという価値観などは、まるで古代から明治時代までつづいていたとされる『お歯黒(おはぐろ)』の話を聞かされているのと似たようなものなのかもしれませんね。
いまでは世界各国の映画を自由自在に観ることができます。そのため、さきほど言いましたように、セックスの最中の声の出し方や身ぶりが、国や地域によって微妙にちがうことを、わたしたちは自分のお部屋にいながらかんたんに知ることができます。
セックスの表現方法にいたっては、印刷機械やポルノ映画のなかった時代と現代とをくらべた場合、ことばにならないほど大きな「へだたり」があるのはとうぜんだとおもいます。
昔のヒトはどのようにセックスを学んでいたの?
インターネットを手にしたあとの現代人にとって、情報のすごさとあやうさは、まるでがん細胞が増殖していくように、ひとつの情報から新たな情報が生み出され、ときには別の情報にすりかわったりしながら、次から次へとひろがっていくことにあります。
その昔、情報は「口伝え(くちづたえ)」によるものがメインでしたし、情報がつたわる範囲もかぎられていました。
村落の歴史、家族の系譜、共同体における上下関係、他者とのつき合い方、道具の使い方、護身術、料理の仕方、セックスの方法、など、生きていくために必要な情報のほとんどすべてが、「書かれたもの(テクスト)」という視覚情報ではなくて、「語られたもの(ナラティヴ)」という聴覚情報によるものだったとされています。
そして「ムラ」社会のあった時代、セックスの方法は、年長者や親族(オジやオバ)から教えられることがほとんどだったようです。
だからといって、昔のひとびとが、現代のわたしたちにくらべて「無知(ナイーヴ)」で「お堅い(スクェア)」ひとびとだったのかと言われれば、そうとは限りません。
わたしたちの祖先が、とてもエロティック(erotic)で官能的(sensual)で淫ら(indecent)だったことは、世界遺産に登録されているインドのカジュラホ寺院群のなかのエロティックな彫刻やレリーフの写真などを検索なさったら納得がいくとおもいます。
また、江戸時代の浮世絵師:葛飾北斎の描いたあまりにも有名な春画や、英国のヴィクトリア朝時代のイラストレータ:オーブリー・ビアズリーのエロティックで風刺の効いた挿絵集をごらんになってもおわかりになるとおもいます。
ディルドなどは2万年以上前から作られていたようですし…(石製だったようです)。
わたしたちの過去をふりかえってみますと、セックスのためのコミュニケーションを学ぶ上では、「語られたもの」による聴覚情報がとても大切なものだったことはまちがいがありません。
ただ、それ以上に大切だったのは、おそらく、ジェスチャ(身ぶりやしぐさや表情)に代表される視覚情報のなかでも、つい見すごされてしまいがちな「視線」だったはずです。
ご存知のように、セックスは、わたしたちにとって、ヒトという種を存続させるためになくてはならない行為です。
それだけではなくて、異なる環境で育った男女や、人種そのものがちがう男女がセックスをすることで、生まれてくる子供の遺伝子に多様性がもたらされ、新しい環境の変化にも適応できるようになりました。
つまりセックスなしにヒトは地上の支配者になることはできなかったのです。
このように大切な行為なのにもかかわらず、セックスは露出度と密着度の高い行為でもあります。
なにしろ、それまで一緒にすごしたことがないような他人の前で服(ヨロイ)を脱ぐだけではなくて、そんな相手とむきだしになった肌を合わせるわけですから、ヒトにとって、それがどのくらい無防備で危険な状態に身をおく行為であったのか、いまでは想像することすらむつかしくなっています。
服を着る(被服 ひふく)という行為はヒトにとって文化を象徴するものです。
アダムとイヴがイチジクの葉っぱで性器を隠したというお話のなかにも、文化的行動をうながす制度の芽生えが見つかります。
英国の動物学者デズモンド・エリスのいう『裸の猿(The Naked Ape)』だったわたしたちヒトが、何万年という時間を経て、いつのまにか『服を着た猿(The Clothed Ape)』へと変身したのです。
ですから、体を保護するだけではなく、社会的地位を示すものでもある衣服を脱ぐという行為には、ほんとうに深い意味が隠されていたはずです。
とんでもなくインパクトのある行為だったはずです。
情欲と恐怖がとなりあわせになっているときに、目と目を合わせながら、相手の心の動きと次の動作を読むことが、どれほど大切だったのかは、21世紀の世界を、AI(人工知能)とともに生きているわたしたちには、想像もつきません。
きっと、わたしたちのなかにある動物的な生殖活動をささえてくれる性欲と、宗教や文芸が語りかけてくる愛という不思議なものを信じることからくる感情の高まりと、ヒトがつくりあげた結婚という社会制度の縛りがなければ、「セックスはみんながしているあたりまえの行為だから」(Birds do it, bees do it)と納得して、おとなしく受け入れることはできなかったのではないでしょうか。
そんな行為において「視線」はとても重要な役割を果たしてきたようです。
セックス未経験者はどこがちがうの?
邦画だけではなく、洋画においても、性的に未熟な女の子や男の子を描くときには、たいてい好きになった相手の視線から目をそらしてうつむかせたり、あらぬ方向へ視線を泳がせたりするジェスチャで表現するのが、お決まりのパターンのようです。
わたし自身の思い出をたどってみても、じっさい、ヴァージン(処女/童貞)とはそういうものだとおもいます。
ヒトは、相手にたいして自分に自信がもてないときや、不安を感じさせられるときには、無意識に目をそらしてしまいがちです。
ところで、火傷や打身や日焼けは、たいていの方々が、幼いころに、経験なさっているとおもいます。
だからこそ、それに似たことが起こりそうなときには、だいたい、どんなことが起こるのか、おおよその見当がつくはずです。
たとえば、幼いころ、線香花火で遊んでいるときに火傷して、数日間痛いおもいをしたことがあれば、大人になったとき、赤く燃えさかるバーベキュー用の炭を手でつかんだりはしないでしょう。
つまり、高度に脳の発達した生き物は、過去に味わったちいさな「痛み」から、これから味わうかもしれない大きな痛みを予測することができるのです。
「痛み」はとても大切な感覚のひとつです。
ヒトの生き死にかかわる大切な「警告」でもあるのですから。
もしもヒトに「痛み」を感知する機能がなければ、恐怖を感じることもないでしょうし、恐怖を感じることがなければ、どんな無茶なことでもするようになります。
5メートルの高さから平気で飛びおりるでしょうし、平然とライオンの檻のなかへ入っていったり、毒蛇の頭を撫でようとしたり、また、沸騰している油のなかへ手をいれて天ぷらをつまみ出そうとするかもしれません。
もし、だれかがそんなヒトに包丁をにぎらせたりしたら…。
想像するだけでB級ホラー映画になってしまいます。
痛みを味わった経験があたえてくれる未来を予測するスキル。
これがヒトという生き物にとっては、とても重要な生存のための能力のひとつなのです。
けれども「初体験」の場合はそうもいきません。
その瞬間が来ないかぎり、なにがいったいどんなふうになるのか、まったく予想がつかないのですから。
いくらソーシャルメディアを通じて、初体験について学んだり、他人の経験談を読んだり見たりしても、けっきょく経験するのは本人であって、しかも初体験と似たような感覚を味わわせてくれるものが他にないのですから、前もって味わうことが不可能な経験でもあるのです。
だいたいこんなものなのかな、という「それに似たような」感覚を事前につかむことができないのです。
予行演習ができない、という意味では、性の初体験も〈死〉と同じような出来事なのかもしれません。
ヒトはほかの動物とちがって「意識」をもっています。過去にさかのぼることができますし、うんと先の未来を想像することもできます。それでも、生まれたときの記憶がなく、死んだあとがどんなものなのかを知ることのできない生き物なのです。
ほんとうにひどい話だとおもいます。
「人生は謎の入口からはじまって謎の出口へ向かうまでのひまつぶし」なのだと言われているような気がしてきます。
しかも、入口の向こう側になにがあったのか、または出口の向こう側になにがあるのか、知ることはできないのです。
人生は、その闇にはさまれたまんなかで、ほんのみじかい期間、ほんのわずかな光を放つものなのでしょうか。
だからこそ、わたしたちの「いのち」は神から授かったものであり、死んだあとはどこか別の世界へ行って、そこはどんなふうになっていて、そこではだれが待っているのか、ということを、こまかく体系的に説明してくれる「宗教」を必要としたのかもしれませんね。
おなじように、処女や童貞の子たちが、事前にすこしでもお勉強して、問題なく初体験をパスしたい、と願うのは自然な心の動きだとおもいます。
初体験はほとんどの方々が経験することなのですから。
ただし、いったんそれを経験したら、いくら体のほうを形成外科で修復したとしても、わたしたちは2度とヴァージンにはもどれません。
いったん通過したら、もうヴァージン(処女/童貞)ではなくなるのです。
あたりまえのことですけれど、このことは大きな意味をもっているとおもいます。
性別と社会、文化と風習、の影響から逃れることのできないわたしたちは、処女/童貞を失うことでさまざまな変化を受けるようにもなりますから。
それは親子の関係だけにとどまりません。
友だちや知りあいとの関係にも微妙な変化をもたらすかもしれません。
また、いったんセックスを経験したら、異性(or同性)を見る目だって変わってしまうかもしれませんし。
このような体験が目前に迫っているときに、自分に初体験をもたらすかもしれない相手の目をじっと見つめ返すことのできる勇気は、なかなか持てないのがとうぜんだとおもいます。
見つめ返す余裕がないほど頭の中がいっぱいなのですから。
事前に多くのテクニックを予習しておぼえていても、実践にはなかなか役に立たないのはそのためです。
なにしろお相手もいることですし、予想通りにコトが運ばないのはとうぜんです。
セックスの上手なヒトはどこがちがうの?
では、反対に、セックスの上手な方たちはどうなのでしょう。
そもそもセックスの上手な方は恋の方策(はかりごと)にも長けているのでしょうか。
ただ、たんにわたし個人の体験でしかありませんけれど、恋愛が上手だった方をおもいだしてみると、「恋愛には〈たくらみ〉が通用しないことを知りぬいているかのような〈たくらみ〉の持ち主」だったような気がしています。
そういう印象をうけました。
でも、そんな恋の達人とはちがって、セックスの上手な方は、自分の大好きなものごとに熱中しているときの子供みたいでした。
言い方をかえれば、自分の感情や欲望はわきにおいて、自分の知らない珍しい相手に心をひかれているのが、はっきりとつたわってくるのです。
つまり、こちらの反応を、興味と好奇心に誘われるまま観察しているかのようなまなざしをもっていたような記憶があります。
とにかくセックスになれているひとは相手をよく観察しているのです。
視線を交わすのが上手です。目を合わせる頻度の高い方たちでした。それはまちがいありません。
これは、相手が男性ではなくて、女性の場合でも同じでした。
わたしの体験からすると、1980年代のカリフォルニアの女の子は、セックスをしているときに、あまり目を閉じたりはしませんでした。
目を閉じるということは、相手とのコミュニケーションを断つということであり、相手を拒絶することと同じような意味を持つからなのだろう、とおもっていました。
とつぜん相手のメールをスルーしてしまうのと同じようなことですから。
みなさんもご両親から「話すときにはちゃんと相手の目を見て話しなさい」と言われたことがあるかもしれません。
目をそらすのは失礼なことなのです。
だからこそ、ハリウッド映画のなかでは、女の子を怒らせると「ふん」といったふうに、わざとらしく顔をそむけるしぐさを使うのは、そのためです。
でも、日本の映画のセックスシーンで女優さんが目を閉じるのは、けっして無礼なことではないとおもいます。
文化的な背景がちがうからです。
日本の男性のなかでも、あるタイプの方たちは、女性からじっと熱っぽい目で見つめられると、まるで相手から誘いかけられているような、あるいはチャレンジされているかのような、そんな印象を持つことがあるのではないでしょうか。
これはわたしの偏見かもしれませんけれど、そういう視線を女性から向けられると「こっちとしてはちょっとやりにくいし困っちゃうなぁ」いうのがそういう男性の本音なのかもしれません。
なぜなら、そのときの女性の視線には、性的欲望が感じとれるからです。
その昔、日本の男性社会のなかでは、女性は性欲を表に出さないほうがよい、そのかわり、男性が性的に興奮してその気になったときだけお相手をしてくれればよい、といった考え方がポピュラーだったことがあります。
いまの時代でしたら、そういう男性は少数派(マイノリティ)に属しているのかもしれませんけれど、視線にこめられた女性の熱っぽい本心が「けむたいもの」に感じられる方が、いまでもおられるかもしれません。
だからこそ、この国では、女性たちの魅力に順位をつけるときなど、「セクシーさ」や「美しさ」よりも、「可愛さ」のほうが上位にくるのでしょうし、女性たち自身も、そういう男性たちの心の動きを知りぬいているからこそ、いまでは世界中で使われている「カワイイ Kawaii」という概念をよりいっそう「売り」にしているように見えます。
「カワイイ」存在は、男性たちをおびやかさない「安全」な存在でもあるということを、ちゃんと心得ているのです。
そしてセックスの上手な方は、そんなふうに可愛らしく目を閉じた女の子の反応も、さりげなく、でも、ていねいに見ています。
熱っぽい好奇心にあふれた子供みたいなまなざしで。
視線はコミュニケーションのための秘密兵器なのです。
視線を交わすことでなにが変わるの?
性的な欲望をはっきりと表に出すような女性を好まない男性や、同じようにセックスアピールが濃すぎる男性を好まない女性について言えば、たんなる「好み」や「性癖」のちがいです、と言われればそうかもしれませんけれど、もしかしたら「その時々の心の状態」からくるものもあるのではないかとおもっています。
セックスはあくまでも「脳」が支配していますので、自己嫌悪とか、自信のなさとか、自分との折り合いのつかなさ、が反映してくるのはやむをえません。
だからこそ、コミュニケーションを交わして「お互いを知る」ことが大切になるのでしょう。
なぜなら、たんなる「好みのちがい」と言われていたものが、いつしか「性の不一致」を生み出し、離婚にまで発展してしまうのですから…。
それだけに、そうなるまでのコミュニケーションはとても大切だとおもいます。
セックスの上手な方は、女のことがほんとうに好きなのだろうなぁ、という感じがハッキリと伝わってくるような視線をそそいできます。
それは、もしかしたら「わたし」のことが好きなのではなくて『オンナ』という在り方そのものが好きなのかもしれない、といったような視線でもあります。
自分の好きなものを観察している子供に共通の、あの観察者だけがもつ不思議な「好奇心」と「愛」と「集中力」が感じられるのです。
コミュニケーションのスキルをあげるために大切なのは相手のことばに①耳をかたむける力、相手のジェスチャを②観察する力、そして相手の心に③共感する力、の3つだと言われています。
これはセックスというコミュニケーションにとっても大切なものです。
そして、そのスキルを高めるための第1歩は、とにかく、なにがなんでも相手と目を合わせる、視線をかわすということだとおもいます。
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歌の解説のかわりとして、それぞれの歌に、その歌が生まれるきっかけとなった秘話が語られています。
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