ちょっと首をかたむけて考えこんだり、なにかを不思議におもったりしたときには、〈小首をかしげる〉ということばが便利です。
うんと昔のことですけれど小首をかしげる女性のしぐさに心をときめかされたことがあります。
オードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn)でした。
『ローマの休日』という映画のなかだったとおもいます。
彼女が小首をかしげるシーンがあって、その所作がそれまでに見たことのないものだったのです。
子供の胸にもキュンとつたわるくらいに adorable なしぐさでした。
それも、ただ、かわいらしいだけではなくて、どこかステキな感じがありました。そのときはそのステキさがなんなのかわかりませんでしたが、なんとかそのしぐさをマネようと、母の三面鏡のまえで苦戦したことをおぼえています。
ベルギー生まれオランダ育ちの西欧のひとなのに、とても親しいあたたかさをおぼえたのは、オードリー・ヘップバーンが黒髪に黒い瞳だったせいなのかもしれません。
けれども記憶はあてにならないものですね。
あとで気がついたのですけれど『ローマの休日』は白黒の映画だったのです。
ものごころのついたころから、ふたりの姉によく〈ネンネ〉といわれることが多かったのですが、こういう、どこかぼんやりしているところが、姉たちの目にはもどかしかったのにちがいありません。
ついさいきん、ほんとに数十年ぶりに『ローマの休日』をみました。
まずその画面が正方形にちかいことにおどろかされました。
いつのまにか、今様の、横に長い画面に目がならされていたせいなのでしょうか。
昔はテレビそのものが正方形にちかいカタチをしていました。
それがあたりまえのことでした。
どんなに目新しいものも、どれほど不思議なことも、たとえ、こわくて見れなかったようなものだって、時がたつにつれて、目がならされ、新しくもなく、不思議でもなく、こわくもないものに変わっていきます。
いったん目がなれてしまえば、じきに心もそれにしたがうようになるからだとおもいます。
それとも、心が先になれてしまったあと、目はその心を追いかけていくのでしょうか。
それとは逆になりますが、ひとむかし前に流行した着こなしをふりかえるときに、なんともいえないおかしみを感じてしまうのは、きっとそのころの自分の目から時代のウロコが落ちたせいなのかもしれませんね。
きっと時代によりそっていた心が冷めてしまったのです。
歴史なんてマジシャンみたいなものよ。あの魔法のつえのひとふりで、時代は、ほんと、まばたきするあいだに、すっかり変わってしまうのだもの。ほんの1年もたたないうちにね。あまり重たく受けとめないことね。
20歳のわたしに叔母がのこしたことばです。
彼女の助言はちゃんと頭のかたすみにのこっているのですけれど、あのころ、いったいなにを重たくうけとめていたのか、かんじんなことが、どうしてもおもいだせません。
習いごとにいそがしくて恋に苦しむようなゆとりもありませんでしたし。
叔母はオードリー・ヘップバーンとおなじように戦争を経験した世代のひとりでした。ですから、もしかしたら、そういう時代の変化について語っていたのかもしれませんが、でも、いまとなっては、もう、聞きかえすこともできません。
『ローマの休日』は1953年につくられた白黒映画です。
ふたたび出会った画面はすっかりキレイになっていました。けれども音にはほんのすこしひび割れた感じがのこっていて、そのモノラルな香合い(かざあい)がなつかしさをとどけてくれました。
オードリーの演じるアン王女は皇室の分刻みのスケジュールにうんざりしています。
公務だけではなくて、お付きのひとびとも、ほんとうに、なにもかもが彼女にとっては〈足かせ〉でしかありません。
そんな立場にうんざりして退屈(たいくつ)しているみずみずしい王女がコミカルに描かれています。
女の子にとって〈退屈〉は no-no ですものね。
彼女はダダをこねて、けっきょく鎮静剤をうたれてしまいます。
そのままベッドに横になって、古くて重々しいブランカッチョ宮殿の天井をながめはじめます。
はじめは、なにげなく小首をかしげて見あげているだけなのですが、天井の四隅をひとつずつ観察するにつれて、ほとんど首をうしろにまわすようなポーズになっていきます。
すると聖母や天使などの彫刻が彼女をじっと見つめかえしてくるのです。
どの彫刻も、古典バロック風というのか、それとも装飾過多のロココ風といったらいいのか、とてもコテコテしていて、王女のシンプルでダイレクトでピュアでナイーブな若さとはほど遠いものばかり。
オードリーはそんな伝統の重さにたいして「ふん、それがどうしたの?」とでも言いたげな挑戦的な目つきをします。
そんなふうにその場面は描かれていました。
すくなくとも、その映画をみていた当時のわたしは、そんなふうにうけとめたのです。
そのときのオードリー・ヘップバーンのしぐさはとってもかわいらしいものでした。
でも、それだけではなくて、彼女のしぐさと目つきに、どこか反抗的(defiant)な色合いとふんいきがただよっていることも見逃しませんでした。
もともと、〈小首をかしげる〉しぐさは、なにかに疑問を感じたときのしぐさです。
なにかに納得がいかないときや不満があるときにもわずかに首をかたむけます。
うまくつかえば、無言でおねだりすることができますし、相手の方を視線ひとつで傷つけることすらできます。
まっすぐな表現でもありますし、ずるい表現にもなります。
女だけにゆるされた魔法のひとつなのかもしれません。
腑(ふ)に落ちないことがあると、男のひとは首をひねります。
もしも男のひとが〈小首をかしげる〉と、不自然に女っぽくかわいらしくみえて、すこし意味あいが変わってしまうでしょう。
とはいっても、性別のボーダーラインをぼんやりとにごらせたいときには、うってつけの表現かもしれません。
ところで、オードリーのしぐさにはわざとらしさが感じられませんでした。
彼女がかわいらしく見せようとしているわけではなく、古いもの重たいもの、つまり伝統的なものへの反抗をにおわせていたからでしょう。
たぶん、そのしぐさには、真摯さ(sincerity)が感じられたのです。
真摯(しんし)さは損か得かをはかりにかけたりはしません。
真摯さは、たとえ誰かに見られていても誰も見ていなくても、いつも同じ、という心がまえのことかもしれません。
でもそれは、オトナの目には、どこか幼くあやういものに見えるのかもしれなくて、でもそれだけに、また勇気のある行為のひとつとして瞳にうつることだってあるのかもしれません。
生きていくうちに、どこかでなくしてしまったかもしれない、挑戦(defiance)というみずみずしい力を、彼女は感じさせてくれました。
ヤンチャなAudrey。抵抗するAudrey。
映画のおしまいには、自分の立場と責任にめざめたアン王女が、伝統と形式の待っている王室の世界へもどっていきます。
けれども、それはあくまでも彼女自身が決めたことですから、たとえ思い残すことはあっても、それをすべてふりきって駆けだしていくしかありません。
そんな王女を演じるAudreyのうしろ姿が胸を打ちました。
まわりのひとたちによって前もって用意されていた原稿のことば。
彼女はそのような公務のありかたにしたがうことなく、壇上からおりて、一般のひとびととおなじ場所で、ひとりびとりに、みずからのことばで語りかけます。
そのなかには、彼女がはじめて胸をときめかせたひともいました。
ふたりのあいだをへだてている高い壁にたいして、ほんの一瞬、ほんの数時間、ほんの数日のあいだ、愛らしく、でも挑戦的に小首をかしげてみせた女性のものがたりは、いつ見てもすがすがしい風をもたらしてくれます。
映画という夢のなかでのお話ではありますけれど、疲れた心の背すじを正してくれるような気がしました。
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