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執筆者の写真香月葉子

【写真とは何か】エドワード・ウェストンとグループf/64

更新日:7月29日


 エドワード・ウェストン(Edward Weston)という写真家がおられました。

 スマートフォンで名前をお調べになるだけで、すぐにその方の作品を見ることができるはずです。

 風景もそうですし、身のまわりにある品々もそうですけれど、女性のnudeまでもが、ほとんど抽象的なデザインのように見えてくる作品がほとんどです。


エドワード・ウェストンの「Nude」作品 1925年

 彼は1932年につくられたグループf/64という写真家のグループのひとりでした。

 そのお仲間にはアンセル・アダムス(Ansel Adams)という方がいらして、みなさんもきっとどこかでごらんになったことがあるとはおもいますが、その方が撮ったヨセミテ公園のきびしく切りたった山壁や谷あいは、まるで神話のなかの神々がつくったのではないかとおもわせる荘厳さ(sublime)につつまれた絵になっています。


アンセル・アダムズの作品 「The Tetons and the Snake River 」1942年

 ところで f/数字は写真機のしぼり値(ち)のことだそうです。F値とも呼ばれています。

 英語圏にお住まいの方は F-stop とか F-number などとおっしゃいます。

 F は焦点距離(focal length)のことで、そのうしろにくっついている数字はカメラのレンズの口径をあらわしています。


 ただ、ちょっとややこしいのですが、この数字は分数によってあらわされている数値なので、 f/2 でしたら「いま穴の広さは 2分の1ですよ」という意味ですし、f/16 でしたら「いま穴の広さは16分の1になっています」ということなのです。

 たとえば、大さじ一杯のお砂糖を基準にして測(はか)ったとき、2分の1 と言われたら大さじ半分の量ですし、16分の1 だと、ほとんど目に見えないくらい少ない量になってしまいます。

 つまり f のあとにおかれた数字が大きくなればなるほど、カメラのレンズの奥にある aperture (アパチャー)と呼ばれる穴は、よりいっそうすぼんでいくわけです。


 このあたりのことは、もうすこし先で、わたしのようなカメラ素人(しろうと)にもわかるように説明させてもらうつもりですので、ここでは、あまり深くお考えにならずに、ただ、なんとなく「ま、そういうものなのか」という程度に目を走らせて、このままお読みいただければ、それでじゅうぶんだと思います。


 とにかく、いまのデジタル一眼レフカメラでも、フィルムをつかっていたころのカメラと同じように、そういうF値(しぼり値)があって、いろいろいじくったりもできるということなので、f/数字 は、写真を撮影する上では、どうしても無視できない大切な設定のひとつのようです。


 ちなみに、わたしは、つい十年ほど前までデジタルのコンパクトカメラをもっていました。でも、それはもう手ばなしてしまって、いまはスマートフォンでしか写真をとることはないのですけれど、カリフォルニアで暮らしていたときには、すこしの間、一眼レフという機械(gadget)にふれたことがあります。


Pentaxの小型軽量一眼レフカメラ:Mシリーズを持っていました

 アサヒペンタックス(Asahi Pentax)というカメラをもっていました。

 首からさげるのがはずかしかったものですから、カメラ用のストラップを手首にまいて、おとしたりぶつけたりしないように気をくばりつつ持ち歩いていました。

 とにかく重たかったことだけをおぼえています。


 なにもわからないまま、ただ、なにか撮りたい気持ちになったときに、なんとなくシャッターボタンをおすだけのことでした。アマチュアの遊びです。ですから、仕上がったポジフィルム(スライドフィルムとも言われています)をライトボックスもしくはトレス台と呼ばれるプラスチック板の上にならべて、下からの明るい蛍光灯の光をとおして見たときには、ほんとうに涙があふれてくるほどがっかりすることが多かったようにおもいます。

頭のなかに描いていたものと、じっさいにできあがったものが、これほどちがうことに、たいへんなショックをうけました。

 お金もかかりましたし。

ライトボックスで仕上がったポジを見るときのドキドキ

 ちょうどそのころでしたか、バークレーに住んでおられたある黒人の女性写真家から、しぼりのことを教えていただきました。

 彼女の写真はバークレー大学が発行している無料の学生新聞「The Daily Californian」にも掲載されていたらしいのです。

 写真店で話しかけられて、さそわれるままカフェにはいり、まだお昼前だというのに、ウィスキーの入ったこってりと甘いアイリッシュコーヒーをいただきながら、写真機のあつかいをおしえてもらいました。

 

 写真機のレンズのおくをのぞきこむと、ちょうどわたしたちの瞳のまんなかにある瞳孔(どうこう)そっくりのちいさな黒い穴がみえます。

 それが レンズの口径 (aperture アパチャー)というものだそうです。

あの穴を大きくしたり小さくしたりするのがしぼりなのだそうで、わたしたちの目のなかの虹彩(iris)と呼ばれるものが、それとおなじはたらきをしているのだそうです。

 わたしたちの瞳孔は暗いところへはいるとひろがって、黒目がちのかわいらしい目をつくってくれますけれど、まぶしい光のなかへ出てゆくと、あっというまに小さくなって、すこし冷ややかなふんいきの目もとになります。


 猫を飼っている方ならよくごぞんじだとおもいます。

 猫といっしょに毛布のなかに隠れたりしたときに、あのアーモンド型の目に出会うと、ぜんぶが瞳になったようで、もう、〈ぬいぐるみっぽいかわいさ〉で胸がいっぱいになります。

 たとえば、恋人といっしょにお部屋にいるとき、さりげなくカーテンを半分ほどひいて光をさえぎっておくと、黒目がちの愛らしい目をつくることができるのとおなじですし、カフェやレストランなどで窓辺の席をえらんだときには、明るいほうに背をむけてこしかけると、自分の体の輪郭をきわだたせることができるだけではなくて、おなじように黒目がちの可愛らしい目をつくることができ、プラス、神秘的なふんいきをすら演出することができます。


 ところで、先ほども申しましたが、 f のあとにつづく数字が大きくなればなるほどレンズの奥の穴(aperture アパチャー)はちいさくなり、数字がすくなくなればなるほど穴はひろがります。

 くどいようですけれど、それがしぼり値です。

 穴の大きさと数値の大きさとの関係が〈あべこべ〉というか〈負の相関〉になっているのでちょっとわかりにくいのですが。

 でも、じっさいに写真をお撮りになるときには、あまりそういう複雑なことをお考えにならなくても、みなさん、体感として理解なさっていると思われます。


 たとえば、まぶしい光のなかで写真をとるときには、その数値をあげていって穴をどんどんちいさくしていきます。そうしないと光がいっぱい入りすぎて、できあがった写真は白く飛んでしまい、なにを写したのかすらわからなくなってしまうからです。反対に、うす暗い場所でとるときには数値をちいさくして穴を大きくひろげます。そうすると、暗いところでもたくさん光がはいってきて、お望みどおりの明るい絵におさまります。


 まえおきが長くなりましたけれど、さきほど紹介させてもらった写真家のエドワード・ウェストンさんと彼のお仲間がおつくりになったグループf/64とは、つまりカメラのしぼり値から命名されたものなのです。

 この数字は当時つかわれていた大判カメラでの口径(アパチャー)がいちばん小さくすぼまったときの値(あたい)でした。


エドワード・ウェストンさんが使っておられた大判カメラ

 ところで、しぼり値にはもうひとつたいせつなことがひそんでいます。

 ついちょっと前にも言いましたけれど、その数値を、たとえばf/8からf/16のようにあげていくと、穴はちいさくすぼまります。そんなふうにしてとった写真は、すぐ近くにある家々から遠くにある山々までもがくっきりとうつしだされたものになります。

 遠近がなくなった感じの絵になるのです。つまり遠近法にささえられた西欧の古典的な絵画とはまるでちがうものになります。

遠近感をなくしてしまうことで絵ぜんたいが抽象的なデザインのようにも見えてきます。

 砂丘(dune)をとった写真をごらんになると、とくによくおわかりになるとおもいます。

 他の風景写真でもそうですが、まるでピカソやブラックの立体派(Cubism)時代の絵のように、とても抽象的(アブストラクト)なものに見えてくるはずです。

 それと同時に、できあがった絵はくっきりとした硬い感じのものになります。


 それとは逆に、f/16からf/2などに数値をおとしていきますと、たとえば、あなたが焦点をあわせている恋人の顔だけはくっきりとうつりますが、背景はぼうっと水彩画のようににじんで、近くにあるものと遠くにあるものとがよりいっそうわかりやすくなります。ついでに見せたいところだけをはっきりと目だたせることもできます。

 それと同時に絵もちょっとやわらかい感じになります。

 写真にくわしい方たちは水彩画のようににじんだその背景を〈ボケ〉とおっしゃるのだそうです。

 これは英語で bokeh と表記されていて、海外の方たちは「ぼけ」と発音しますが、なぜ日本語のボケとそっくりな発音なのかといえば、もともと、このことばは日本語が起源(オリジン)だったからです。

 Kawaii(かわいい)や Hentai(変態)とおなじように、いまどきのことばを使わせていただくと、日本から『発信』されたものだったのですね。


 けれども、グループf/64の写真家たちは、その〈ボケ〉をきらいました。なにもかもがくっきりと写っていなければいけないのです。恋人の顔のニキビだけではなくて、そのうしろに写っている壁の汚れまでもが。

 いいえ、それだけではありません。写真を撮ったあとに、現像室でそのフィルムをいじくったり手なおしすること(retouch レタッチ)すらをもきらいました。

 いまどきのことばをつかわせていただくと、写真をとったあとに〈フォトショ : Adobe Photoshop〉や〈クリスタ : Clip Studio Paint〉を使って画像をいじくったりしてはいけない、ということがグループf/64のメンバーのあいだでの暗黙のルールだったのです。


エドワード・ウェストンの作品 「Plaster Works」1925年

『写真をとった瞬間に写真のできあがりが目に見えていなければいけません。つまりシャッターを押したとき、すでにプリントされた写真が頭のなかで完成していなければいけないのです。とうぜん、できあがったものは、構図(composition)をふくめて、写真をとった瞬間そのままのものでなくてはいけません。撮影したあとに暗室で乾板やフィルムをいじくったりするのはもってのほかです』

 そのような考えのもとにできあがった流派がグループf/64だったそうなのです。

 それは彼らが若かりし時に出会ったアルフレッド・スティーグリッツ(Alfred Stieglitz)という方の提唱なさった「ストレート・フォトグラフィ」という考え方に寄りそうものだったらしく、その厳格なルールから、まわりの方々からは写真におけるピューリタニズムだとすら呼ばれていたとききました。

「そこには写真家が長いあいだ(19世紀なかごろから)絵画っぽい写真をつくろうとしてきたことへの抗議もふくまれていたのです」とシカゴ大学でおしえていらしたジョエル・スナイダー教授(Joel Snyder)が『写真と映画の歴史』という授業をしているさなかにおっしゃいました。


「ウェストンの考えはこういうものでした。絵画は絵画。写真は写真。写真は絵画のマネをするものではなく、また絵画がやってきたことを追いかけるものでもない。ですから、写真家にとっては、写真機でしかうみだせない写真らしい写真をとることが、もっとも大切なのだ、と」

 先生はご自分のとった写真が2007年に廃刊となってしまった『LIFE』誌の表紙をかざったこともあるというのがご自慢で、古びたその雑誌といっしょにスティーヴン・スピルバーグロマン・ポランスキーと交わした手紙までをも教室にもってこられたりして、女性の多いクラスだったせいもありますけれど、いつもウキウキなさっていてかわいらしい印象をうけました。

 いまはもう名誉教授(Professor Emeritus)になられたようですから〈かわいらしい〉なんていうのは失礼かもしれませんけれど、80年代後半にスナイダー先生のクラスで聴講生をしていた東洋の島国から来た女の目には、そのように映っていました。


シカゴ大学のジョエル・スナイダー名誉教授

 すこし話がそれますけれど、スーザン・ソンタグ(Susan Sontag)という方がおられました。文芸評論だけではなくて、写真の理論においてもよく知られた作家で評論家の方でした。

 乳がんを薬剤ではなく理念によって克服した知性の権化のような女性です。

 そのことについてはまたいつかふれてみたいと思っていますが、例のスナイダー先生は彼女についてさまざまな裏話をしてくださいました。

「ぼくは、スーザンと食事をしたことがあるが、彼女はほんとうに美人でsexyで、ぼくなんかではとうてい追いつけないくらいに頭の良い女性だった。たとえて言えば、こっちがFordのPintoで走っているそばをポルシェ911で追いぬいていくような頭の回転速度なんだ。フランスの哲学者ロラン・バルトがぞっこんになったのもうなずけるよ」

 そのときわたしのとなりに腰かけていた女の子が「でも先生、スーザン・ソンタグはlesbianよ」と声をあげて、先生が「いや、彼女本人からきいた話ではbisexualだそうだよ」と返されたのが耳にのこっています。


 じつは、そのスナイダー教授からおしえていただいたのが、さきほどの、グループf/64のお話なのです。

 エドワード・ウェストンがつくったその写真の流派は、さきほどご説明したストレート・フォトグラフィ(straight photography)の考え方をおしすすめようということであつまったメンバーでもありました。

 ですからグループf/64のメンバーの方たちはストレート・フォトグラファーとも呼ばれています。

 このストレートということばをえらんだのはとてもみごとで、このことばにはその流派の考えがそっくりそのままあらわれています。

『写真をとったときが写真ができあがったとき』というのは生(き)のままでなければいけないということですし、現像室でフィルムをいじくらない、というのは、混ぜものをしないというルールにつうじています。

 そのため、エドワード・ウェストンさんは、女性のnudeを撮影するさい、のちほどリタッチをするかわりに、モデルさんの素肌に炭の粉をなすりつけて、よりいっそうの立体感を出すための影をつくっていたのだそうです。

エドワード・ウェストンの作品 「Armco Steel」1922年

 話はとびますが、セロニアス・モンク(Thelonious Monk)というジャズピアニストには『ストレート・ノー・チェイサー』(Straight, No Chaser)という名曲があります。

 この方は『ラウンド・ミッドナイト』という名曲をつくられた方でもあります。

 深夜をまわった大都市のバーのかたすみで、ひとり、お酒を飲むときの、あの、けだるいひとときをたっぷりと堪能(たんのう)できる名曲だとおもいます。

 そのイメージにもつながるのですけれど、この『ストレート・ノー・チェイサー』というタイトルを見るたびに、バーのカウンターにひじをついて、丸椅子に腰をひっかけたジャズマンもしくはジャズウーマンが、バーボンを注文している場面がうかんできます。


 お酒をたのんだときに「チェイサーもおねがいします」とバーマンに声をかけてみてください。すると、お水が出てきます。ご自分で水割りにするためのものではなくて、ウィスキーやバーボンなどの強いお酒を楽しむときに、そのお酒とかわるがわる飲むためのお水です。ちょっとひと息つくためのお水でもあります。または、お酒の味をリセットするためにチェイサーをお使いになる方もいるでしょう。

 ですから「Straight, No Chaser」という曲名は、「ウィスキーはそのままで。水はいりません」ということですし、さらに言えば「生のままのお酒を混ぜものなしで」という意味にもなります。


超絶技巧なのにユーモアいっぱいのセロニアス・モンクさん

 そのことばをストレート・フォトグラフィという写真の撮り方にかさねてみると、グループf/64を結成なさったエドワード・ウェストンさんの考えが透(す)けて見えてくるのではないでしょうか。

 つまり「生のままに撮影した写真を手をくわえずにプリントする」という姿勢につながります。

 ただ、ここまで書いてくると、スナイダー先生がお話ししてくださった、ウェストンさんにまつわる、おもいがけないエピソードを、どうしても語らずにはいられなくなります。


 以前、先生のクラスに、かなり年配の女性が、わたしのような聴講生としてすわっていらしたそうです。

 70年代のころだったとおっしゃったような記憶があります。

 その方はロサンジェルス(天使たちの街 City of Angels)から来られた方で、若いころにエドワード・ウェストンさんの生活の糧(かて)となっていた写真館でポートレート写真をとってもらったお客さまのひとりでもありました。

 その女性がためらいがちに手をあげてつぎのように話されたそうなのです。


「でも、先生。あの方は、そんな方ではありませんわ。フィルムを現像したあとにプリントをいじくって(レタッチして)美しくしてくださいましたもの。ソバカスは消えていたし、鼻すじはとおっていて、しかも肌はなめらかで、瞳だってきらきら輝いていました。これが自分だとはとうていおもえない、まるで女優さんのプロマイドをながめているようにステキな写真でした。どちらかといえば印象派のルノアールの絵みたいでしたわ」

「いや、そんなはずはないでしょう。彼はストレート・フォトグラファーのひとりだったのですから。暗室(現像室)で手なおしをくわえるなんてことはもってのほかだったと思いますよ」

 先生はそのようにお答えになったそうです。すると彼女はつづけて「では明日、彼の写真館の名前がきざまれた、わたくしの娘時代の写真をお見せします」とおっしゃって、ほんとうに教室へお持ちになったということでした。

 それをみんなでまわし見て、おどろきの声と感嘆のため息とふくみ笑いがあふれる教室のなかで、そのとき、スナイダー先生だけはぐったりと全身の力がぬけてしまうほどの衝撃(しょうげき)をうけたのだそうです。

「彼はぼくのヒーローだったのに、裏切られた気持ちでいっぱいだよ」と。


「ボケ」と「リタッチ」を使った現代の写真作品

 ところが彼女のお話はそれだけではありませんでした。

 ウェストンさんに「もしその気がおありでしたら下着姿の写真をとってみるおつもりはないですか?」とたずねられたそうなのです。

「ようするに彼はあなたに気があって誘っていたということですか?」

「ええ、そうだと思いますわ。ディナーにも誘われましたし。わたしにはそのときもう婚約者がいましたし、ウェストン氏はわたしの父よりもお年でしたので、ていねいにおことわりしました」

 その逸話(いつわ)をスナイダー先生が話しおえると、わたしだけではなく、クラスにいたほとんどの女性たちが大笑いしたのを思い出します。

 けれども先生はざんねんそうなお顔で「ぼくのほうはといえば、こうやって、みんなの前でこの昔のエピソードを話すたびに、あのあこがれのウェストンからうけた、このやり場のない痛みがよみがえってきて、つらくなるんだ」におっしゃって、さきほど以上にみんなを笑わせたのです。

 

 芸術と生活との折り合いをつけるのはとてむつかしいことのようです。

 いまさらながら、深く考えさせられるなつかしいおもいでです。

 それ以上に、たった一枚の写真をとるために、数時間どころか、あるときは数日間のあいだ、極寒のなかで、もしくは酷暑のなかで、または雨に打たれながら、強風にたえながら、陽ざしと雲ゆきと空気の透明度と色合いがちょうど自分の願っていたとおりになるまで、じっとシャッターをおす瞬間を待ちつづけた、そんな写真家たちがいたということ、そして、いまでもそのような写真家の方たちが、どこかでじっとファインダーをのぞきこんでいるということを、ふとおもいだせてくれる、そんな良い機会にもなりました。


カメラがあるかぎりどんなに寒くてもぼくは負けない

 写真家というのはきっと自分がいちばんもとめている光をさがしている方たちなのでしょう。

 これから先、写真をとるための機械はまだまだ進化していくでしょうし、写真のとりかたそのものも変化していくのでしょうけれど、コンピュータ・グラフィックスと呼ばれるものですら、光と影とのたわむれに気をくばることなしにはそれらしい絵にはならないのではないかとおもわれます。

光を追いかけるということは影を追いかけることでもあるでしょうし、影を知ることで見えてくる光もあるということなのでしょう。

 写真家の目は不思議です。

 みなさんやわたしの見ているこの日々の風景は、写真家の目にはどのようにうつっているのかしら、とふと知りたくなってしまいました。










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