渡米して間もないころにバークレーで知り合ったリヴは、緒斗とわたしがナパへ引っ越すと、週末がくるたびに、友だちから借りた車でたずねてくるようになった。
ナパのあまり人通りのないダウンタウンを彼女と手をつないで歩いていると、行きかう中年の白人女性たちからヨコシマな眼差しを向けられることもあった。
教会のたくさんある田舎街だった。裁判所や郵便局の建物も古くていかめしかった。
わたしのほかにはひとりの東洋人すら見かけない街で、上背のある黒髪のユダヤ系の女性と、楽しそうに、しかも20歳をすぎた女同士が手をつないで散歩しているのが、地元の人たちに奇異な感じを与えたのはとうぜんかもしれない。
「バークレーとちがって、ここに住むのには勇気がいるわよね。わたしみたいなユダヤ系にとっては肩身が狭いとこだとおもう」
さっそく街の雰囲気を読みとったリヴは、私にそうささやいて、わざと物珍しそうなしぐさでその女性をふりかえってみせるのだった。
そんな彼女と、なぜ、この田舎町のメインストリートで見つけた古ぼけた中国料理店に入ることになったのかは思い出せないが、おそらく歩き疲れていたせいで(どこでもいいから座りたい)という思いが心を占めていたせいかもしれない。
その中国料理店には、小ぶりで古風な中国風の店構えとは不釣り合いな『A-1カフェ』(エーワンカフェ)という英語の店名がついていたので、すこし気おくれしそうになったけれど、周辺には、バークレーで見かけるような、ふたりで気軽に入れるようなカフェも見当たらなかった。
客は私たちの他には誰もいなかった。
まるで『閉店』(CLOSED)の札をかけ忘れた店に入り込んでしまったかのように静まり返っていた。
壁やテーブルクロスやメニューにいたるまで、すべてが色褪せていた。
「ハロー」と呼びかけて店内を見回していると、店の奥から中国人と思われる中年の女性店員が出てきた。
そして私たちを見るなり、「CHOP・SUEY?」と無愛想な表情でたずねた。
チャプスイとは中華丼のようなものだ。
まだ席にもついていないし、もちろんメニューすら見ていないのに、それしか注文を受けたくないといったような雰囲気でもあったため、わたしたちはとまどった。
あまり食べ物にはこだわりのないリヴは「じゃ、チャプスイにしようかな」とつぶやいたので、わたしはその中国人の女性に「おすすめみたいだから、それをふたつお願いします。わたしたち、どこに腰かけてもいいの?」とたずねた。
女性店員は軽くうなずいてすぐに奥へ消えたが、10分もしないうちに料理を運んできた。
「このお店、歴史がありそうですね。ナパにはいつ頃から?」とわたしがきくと「1934年」というすげない応答が返ってきた。
「やっぱり、そんな感じがしたのよ。建物自体が古いもの」とリヴ。
「ナパにはここしか中国料理店がないしね」
アメリカ最大級のチャイナタウンをもつサンフランシスコを三方から囲んでいるベイエリア周辺の街々とはちがって、この町で東洋人を見かけることはめったにないことだろうから、ほかに中国料理店がないのも当然かもしれない。
リヴとわたしはチョップスイをつつきながら、たわいのない会話を交わし、半時間ほどすごしたあと席を立った。
静かすぎてあまり居心地の良い場所ではなかった。
店の奥のほうで、誰かが聞き耳を立てているような気配を、それとなく感じていたからでもある。
支払いをすませてテーブルにチップを置いたとき、さきほどの女性店員がわたしに話しかけてきた。
「Are you Japanese?」
「えぇ、日本人ですよ」とわたし。
そのときのわたしに向けられた敵意のある眼差しに気づいたのか、リヴが横合いから口をはさんだ。
「この彼女が日本人だってことに、なにか問題でもあるの?」
そのときのわたしは、ユダヤ系のリヴらしい過剰反応ではないか、と感じていたかもしれない。
女性店員はカタコトの英語でつぎのように話しはじめた。
「わたしの祖母は日本兵に殺されました。そのとき、まだ、わたしはほんの小さな子供でした。そんなわたしの目の前で母をレイプしたんです。そして、そのあと、わたしたちが見ている前で、こんどは祖母を殺したんです。まるで虫けらみたいに」
すると、彼女が語っているところへ、とつぜん奥の方から男性の大声が飛んできた。
彼女の名前を呼んでいるようすだった。
中国語はわからなかったけれども、「やめろ」と彼女をいさめているようなニュアンスの声色に感じられた。
目の前にいる彼女の年齢から察して、彼女の祖母は、たぶん南京大虐殺の被害者かもしれないと気がついた。
この街でようやく東洋人に会えたというのに、彼女の話で、わたしは胸がつぶれそうになった。
けれども、戦争という国家レベルでの出来事を、いきなりこういう場所で持ち出され、しかも、初対面のわたしに、その怒りの感情を向けたことにおどろかされ、困惑して、わたしは一瞬あとずさったのをおぼえている。
その彼女が「あなたからのチップはいりません。わたしには必要ありません」と1ドル札を突っ返してきたので「それであなたの気持ちがすむのだったら……」とわたしは受けとった。
『A-1カフェ』は翌年の1982年に店を閉じた。
ナパの市街地にあったゆいいつの中国料理店だった。
1981年 秋 / ナパ
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