その女性が話しかけてきたのは、ナパ大学 (Napa Valley College) の学生食堂の外につくられたテラスで昼食を食べているときだった。
それまでいちども言葉を交わしたことはなかったが、わたしが聴講していた社会学のクラスでいっしょだったらしい。
「わたしクリスティーナ」
「わたしヨウコ」
「ヨウコ、て日本では人気のある名前なの? よく耳にするけど」
「ふつうの名前で安心できるからだと思う」
彼女には2人の兄と2人の妹がいて、兄は2人とも屠殺場で働いていて、ふたりの妹たちの夫は、ともに葡萄畑で働いているのだそうだ。
「そのサンドイッチ、あなたが作ったの?」とわたしの手作りたまごサンドイッチに目をとめたあと「美味しそうね」とささやいた。
だから彼女の食べかけのブリトーと交換することにした。
美味しかった。
ナパの街中にあるメキシコ料理店でブリトーを食べたことはあったが、なかに詰められた豆の味は彼女が作ったもののほうがはるかに美味しかった。それを伝えると、彼女はうれしそうに歯を見せて微笑んだ。
ひきつめた黒髪だった。
目尻には深いシワが刻まれ、茶色い肌にその白い歯が印象的だった。
メキシコ人の2世だと言った。
わたしがメキシカンライスを作るのが好きだと言うと、味見をしてくれるということになり、その週の日曜日の午後、わたしのアパートメントをたずねてきた。
2ドアのフォード・ピントでだった。
「あのポンコツ車ね、窓が閉まらないのよ。でもね、ナパは雨がほとんど降らないところだから平気。じつはね、サンディエゴからあのピントで一年前に逃げてきたばかりなの。暴力夫からね。子供ができないものだから彼の両親や兄弟からも役立たずの女みたいにいつも蔑まれて。でもね、授からなかったのはきっと彼のせいなのよ。わたしの妹たちは子沢山だし、わかるでしょ? 彼はうすうす自分のせいだって気づいてて、でもプライドが許さないから、自分を責める代わりにわたしを虐めていたのにちがいないの。不妊治療を受けたい、て言ったら、すごい剣幕で怒り出してボコボコ殴られた。わたしはね、とにかくこのナパのコミュニティカレッジを卒業して、ちゃんとした職を得たいの。親族のなかでカレッジに入ったのは、私だけなんだもの。ぜったいに頑張りたいの」
緒斗はわたしたちのグラスにワインをつぎたすのが楽しくてしかたがなさそうだった。
けれども、しばらくしてカレッジのクラスメートから電話がはいり、「ちょっと出かけてくる」と言い残したあと、姿が見えなくなった。
「ね、クリスティーナ、わたしのメキシカンライスはどうお? 辛くない? ハラペーニョを入れすぎたかもしれない。わたし、けっこうホットで刺激が強いのが好きだから」
「わたし、メキシコ人の女よ。ハラペーニョなんて、子供のときに飼ってた犬だって食べてたくらいだから、平気に決まってるじゃない」
「犬にもハラペーニョを食べさせてたの?」
「いつのまにか家に居着いた子だった。庭に迷い込んできたのを兄たちがこっそりと飼いはじめたの。親に内緒でこっそりと食べ残しをやってたわ。だからメキシコ料理には慣れてたのよ。母が作る料理のほとんどにはハラペーニョが入ってたし。毎日兄たちが運んでくるホットな食べ残しに慣らされてたのかもしれないわね。少し後ろ足をひきずりながら歩く犬だった。いちども吠えたことがないの。いつも黙りこくってた。なにを考えてたのかな」
「名前は?」
「ペェーロよ」
「ペェーロ。おぼえやすい名前ね。わたしでも発音できるし」
「ペェーロってね、じつはスペイン語で〈犬〉って意味なの」
「なぁんだ。そうなの? 犬って呼ばれてた犬だったのね?」
「イヌっていう名の犬よ。まさに犬のなかの犬。最高でしょ?」
わたしがクリスティーナにトイレがどこにあるのかを教えていなかったせいで、彼女がもじもじと腰をひねりながら手洗いの場所を尋ねたのは、それからほとんど3時間がすぎた後のことだった。女ふたりだけなのに、とても恥ずかしそうだった。わたしは彼女の恥じらいがとても新鮮に感じられて、よりいっそう彼女のことが好きになった。
同性の前でもはじらいを忘れないひとが好きだ。
彼女はここに来る少し前に映画監督のフランシス・フォード・コッポラに会ったと言った。
彼女の親友とこのナパの近くのヤントヴィルにある彼の自宅を訪ねたのだそうだ。
『地獄の黙示録』と『ゴッドファーザー』で知られるコッポラ監督のパーティーに招待されていたらしい。
なだらかな低い山々を見渡せる広い庭のある家だったと言った。
クリスティーナに会ったコッポラ監督は、暮らし向きのことばかりを尋ねて、『地獄の黙示録』など、映画に関する話にはまるで興味がなさそうだったらしい。
どこのスーパーマーケットの野菜がおいしいか、とか、カレッジの奨学金はいくらぐらい出るのか、とか、生活に密着した話ばかりだったという。
だから彼女も映画に関する質問などはいっさいしなかったのだそうだ。
クリスティーナがコッポラ監督の質問に答えているあいだ、彼はとても誠実な目つきでじっと聞き入ってくれたという。その時の、コッポラ監督のあのやさしい深いまなざしが、いまでも強く印象に残っていると彼女はほほえんだ。
茶色の顔のなか、白い歯があざやかだった。
1982年 秋 / ナパ
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