クラウディアは物静かな女性だった。
謎めいた印象をすら受けたのは、おそらく、まなざしの深さがちがっていたからだろう。
すぐ間近で向かいあっているとき、こちらをじっと見つめているのにもかかわらず、東洋人をめずらしがっているというわけではなく、緒斗とわたしの力関係をさぐろうとしているようすでもなく、また、自分とわたしのどちらが異性の目から見て魅力的だろうかというような、ヘテロセクシュアルの女性にときおりみられる値踏みや競争意識は感じられなかった。
初対面とはおもえないような親しみのある視線なのだけれども、長く目を合わせていると、逆に未知の闇がひろがっていくような、そんなまなざしだった。
彼女は私費留学生リノと結婚したばかりで、ふたりの母国はスペイン、出身地はともにマドリードだと聞かされていた。
クラウディアの背はわたしより少し高くて165センチくらいだったと思う。
黒髪のストレートロングヘアに、エメラルドグリーンの瞳をしていて、香水の使い方が上手だったのか、なにげなく近づいてきたときや、すぐそばで軽く肩をすくめたときなどに、なんともいえない良い香りがとどいた。
また、たとえ、同性であっても、自然とこちらの視線をひきつけることができるような微笑の持ち主で、たぶんクラウディア自身がそれをよく知っていたし、その方法を心得てもいたのか、彼女のほうへ視線を投げるたびに、かならずといってよいほど胸が高鳴るような微笑みを投げてよこすのだった。
彼女の夫のリノは、カリフォルニア大学バークレー校附属の英語学校に通っていて、そこで緒斗と同じクラスになり、いつのまにかつきあうようになった。
彼はバークレー大学の環境デザインを目指していると言っていた。
ふたりは同世代で、第2次世界大戦をくぐりぬけた厳しい父親に育てられたせいか、共通点も多く、会話がはずむことがあったらしい。
けれども、そんなある日、英語学校からの帰り道、偶然に、リノと彼の新妻クラウディアのふたりとすれちがうまで、わたしたちはリノが既婚者であるとは思いもしなかった。
リノが語らなかったため、というよりは、ただシンプルに、わたしたちが相手の私生活にふれないタイプだったからだろう。
クラウディアは片言の英語でわたしたちに挨拶したあと、古典的ともおもえる控えめなものごしでリノに何かを耳打ちした。わたしにはそれがスペイン語だということしかわからなかったが、けっきょく、緒斗とわたしは、そこからひとつ裏に入った、街路樹がうっそうと茂った通りの、ほんの少し奥まったところにある彼らのアパートに立ち寄ることになった。
リノが話してくれたところによると、クラウディアが彼女の手作りの焼き菓子を食べさせたいと言うことらしかった。
アーモンドの香りのするその焼き菓子は、口の中にしっとりとひろがり、やさしく崩れるような食感があって、彼女が調合したというハーブティーと相性が良かった。
ティーポットからお茶を注ぎながら、彼女はわたしにさりげなくほほえみかけてきた。意味ありげな謎めいた微笑みだった。そのエメラルドグリーンの瞳に吸い込まれてしまいそうな、いままで味わったことのない感覚に、わたしは耳たぶが火照ってくるのを感じたはずだ。
ちょうどそのとき、リノがスペイン語で彼女に何かを耳打ちし、彼女はキッチンへと去った。
まるで自分の妻をわたしから遠ざけたいかのような思惑が感じられたのは、わたしのほうに、スペインの男性にたいする、いや、ラテン系の男性にたいする偏見のようなものがあったからだろうか。
つまり、はっきりと意識はしていなかったけれども、ラテン系の男性は女性に対して権威的で威圧的であり、どこか男尊女卑的でもある、というようなステレオタイプをもっていたのだろうか。
たとえ自分ではそんなつもりはなくても、少女時代に見たり読んだりした映画や書物の影響が、知らず知らずのうちに頭のかたすみで苔むしていることだってあるのかもしれない。
わたしは彼に渡米の目的を尋ねてみた。
直毛の金髪をゆっくりとかきあげ、リノはわたしの質問に答えはじめた。
日本の漫画やアニメにたびたび登場する貴公子のような、もしくはトールキンの『指輪物語』に登場するレゴラスをおもわせる、きわめてハンサムな顔立ちだったが、その青い目からは問診する外科医のように冷めた印象をうけた。
ここに来る前は南アフリカやオーストラリアに滞在していて、わざわざアメリカの大学に留学したのは、バークレーで建築学の学位を取るためだと言った。
父親が建築家だったので、自分もそう成らなければいけないのだ、と。
けれども彼自身は建築にはあまり興味がなかったらしく、スペインの大学を卒業したあとは、バックパックを背に世界中を旅して、オーストラリアで小型飛行機の操縦士のライセンスを取得した。
ところが、スペインに帰国してすぐに父親が亡くなり、途方にくれていたところ、父親の会社の共同経営者だった男性の娘と結婚することで金銭的援助を受けることが可能になり、その娘、つまり新妻のクラウディアをともなってカリフォルニアにやってきたという。
話を聞きながらわたしの気分はすこし冷めはじめていたとおもう。
クラウディアのように魅惑的な女性と結婚できたのに、ふたりの恋のきっかけやエピソードを披露することもなく、まるで履歴書の内容を読みあげるかのようにして、淡々と結婚の経緯を語るのが、なんとなく不思議だったからだ。
「彼女は英語学校には行かないの?」とわたしが尋ねると、キッチンから出てきたクラウディア本人が「英語学校にはまだ入りたくないの」と答えた。
彼女は内気で寂しがり屋で、すぐにでもスペインへもどりたいらしく、たびたび寄宿学校時代の女友だちに国際電話をかけては長話をするので、電話代がかさむのだそうだ。
クラウディアは貴族の血を引く家系の次女で、彼女の姉は尼僧になったのだと聞いた。
スペインでは、貴族の家系に娘が生まれた場合、尼僧として、教会に差し出すという慣習があるらしい。
じつはわたしはそのことを知っていた。
わたしの姉がスペイン修道会の経営する全寮制の女子校にいたころ、1年に1度開催されるバザーのイベントに参加させられたことがあったからだ。
抽選会のために和服を着せられて的の円盤に矢を射るという役をさずかった。
そのときわたしはまだ小学生で、わたしのまわりには、スペインから来ていたシスターたちがいた。
校長先生が、とても背の高いスペイン人だったことと、その名前が長くて復唱ができなかったことをおぼえている。
もうひとり紹介されたのは、姉の話にしょっちゅう登場していたシスターだった。
先生方のなかではもっとも厳しい女性だという噂で、姉によると、彼女はスペインの貴族の血を引く家柄の出身で、古くからの慣習に従って尼僧になった人だったらしい。
そのカルメン先生が、抽選会が終わったあとに、わたしの手を引いて、学校の調理室まで連れて行ったのだ。
ベールをかむった怖い目つきの先生を前にして、わたしは怖気づいていたのにちがいない。
カルメン先生は調理台にあったリンゴを手に取ると、ナイフでそれをカットし、小さなひと切れを、自分の口にすべりこませた。そして人差し指を唇の前に立てて、これは内緒よ、とでも言いたげにウインクしてみせたのだ。
そのまま彼女はこちらをじっと見つめたまま口を閉じてもぐもぐとリンゴを食べはじめた。
まだ子供だったので、彼女のその鋭い目に吸い込まれそうになってはいたが、リンゴを噛む音がまったく聞こえなかったことには気づいていた。
調理室から解放されたあと、そのことをさっそく姉に報告すると、カルメン先生はリンゴを音を立てずに食べることができるということで、女子校内では有名なのよ、と教えてくれた。
そのことをクラウディアに話すと「そういえば、尼僧になったわたしの姉も、リンゴを音を立てずに食べていたわ」と言った。
すると緒斗が、彼の大伯父は禅寺をもっていたが、『たくあん』を音を立てずに食べることができた、と言い出した。ところが、たくあんがどんな食べ物なのかをリノとクラウディアに説明しなければいけなくなった。そうしているうちに、いつのまにかその場が和んできて、結局、スペイン産のワインを飲みながら、冷蔵庫に残っていたトマトスープをあたためて、みんなでサンフランシスコ名物のサワーブレッド(サワドゥ)を浸して食べながら、楽しい数時間を過ごすことができたのだった。
それでもわたしはときおりリノの視線が気になっていた。
彼は緒斗と会話をしているのにもかかわらず、クラウディアとわたしが話しはじめると、チラチラとこちらを盗み見ては、怒っているかのようにインテンスな眼差しを向けることがあったからだ。
それから数日後、わたしはすぐ近くのドラッグストアで、偶然にもクラウディアを見かけて声をかけることができた。
バークレーを横切る大通りのシャダックアヴェニューに、大きなドラッグストアがあるのだけれど、そのいちばん奥まった生理用品売り場でだった。
ふたりが同じメーカーの製品を使っていたことがわかり、カタコト英語同士の距離がさらに縮むのが感じられてうれしかった。しかも物静かな彼女のエメラルドグリーンの瞳に見つめられると、なんだかその場から動けなくなるような、いつまでも一緒にいたくなるような、まるで心理学でいう本能的に心が通じあった状態をあらわす『ラポール』が築かれたようで、もう逃れようがなかった。
わたしは彼女をアパートに誘うことにした。
猫のサティも彼女を気に入ったらしく、部屋に招きいれるやいなや、クラウディアの足もとから離れなくなった。
その流線形のふくらはぎに胴体を擦り寄せて歓迎しているようすだった。
そんなクラウディアは猫のあつかいになれていた。
サティのあごの下から耳たぶの裏、そして背中へかけて、毛をくしゃくしゃにしながら愛撫するときの指の長さとしなやかさに、わたしはおもわず目をうばわれていた。
彼女は書棚にならんだわたしの音楽カセットのコレクションからオランダのプログレッシヴロックグループ『フォーカス』を見つけて、「このグループ、大好きなの。いますぐ聴きたいわ」と言ったので、わたしはさっそく、以前、黒人の家の前庭でひらかれていたガレージセールで手に入れたラジカセに、その音楽カセットテープをすべりこませた。
会話はとだえ、クラウディアはじっと目を閉じたまま、ヤン・アッカーマンのギターとタイス・ファン・レールのフルートのかけあいに聞き入っていた。
その膝の上で、猫のサティは、気取った横顔を見せつつ、スフィンクスポーズを保っていた。
しばらく音楽に浸っていた彼女だったが、目をあけると、ひとりごとのように話しはじめた。
「リノはね、わたしが女性と一緒にいると、不機嫌になるの。女性と仲良くしてるのが嫌なの」
「じゃ、男性とだったら平気なの?」
「わからない。わたし、父親以外の男性とは、ほとんど長く話したことがないし。たとえ話をしたとしても、ほんの挨拶どまりで。実は、わたし、彼と結婚するまで女性の恋人がいたのよ。しかも彼女は学校の恩師で、神父さんの妹だったわ。それで大変なことになっちゃって。わたしたちの関係が知られたとたん、彼女のほうはわたしを置き去りにしてイタリアへ逃げちゃったわ。それだけでも酷くて苦しいことだったのに、世間体を気にする父からは毎日のように責められて。その大変な時期に父の共同経営者の息子さんのリノがオーストラリアから帰ってきたらしいの。だけど、彼が帰ってきてからひと月もしないうちに彼のお父さまが心臓発作で亡くなってしまって。そのせいで、わたしの父は、娘の問題と、会社の将来について、同時にふたつのことで頭を悩ませることになって、ますますわたしに辛くあたるようになった。その裏で、さっそくリノに、自分の娘と結婚したら、建築設計事務所の後継者にしてやるからどうだ、という話をもちかけていて、しかもわたしを嫁にしたらアメリカに留学させてやるって約束してもいたのよ。ようするに、このバークレーでしっかり建築とビジネスを学ばせて、安心できる後継者を作ろうっていうのが、わたしの父の画策よ。ついでに、娘のスキャンダルを鎮めることにもなるし、一挙両得だっていう考えだったのにちがいないわ。そして、すぐに父の申し出にうなずいたリノは、たぶん彼の母親にも説得されていたのにきまってる。だって、彼の母親はこの結婚に大賛成だったし、夫を亡くして経済的には先行きが不安だったろうし、彼女にとっても一挙両得だったのはまちがいないわ。なにしろ、彼女の不倫の相手は、わたしの父だったんだもの」
「ええっ? そのこと、クラウディアは知ってたの?」
「だって、父ったら、わざとらしく、わたしの視界に入るような証拠を残しておくんだもの。それとなく心の準備をさせていたのだとおもう」
「じゃ、あなたのお母さまは?」
「わたしの母? わたしの母は、ウェルネス・リハビリ・センターに入院して、もう八年以上にもなるわ。メンタルヘルスなんて言ってるけど、ようするに精神病院と変わらないわよ。頭がおかしくなってしまったんだもの。娘のめんどうもみれないくらいに」
「そこまで言わなくても」
彼女のおどろくほど現実的で冷徹なモノの見方に、わたしの抱いていたクラウディアのイメージが、どれほど自分の願望によって彩色されていたのかを思い知らされた。
「弱い弱い母親なのよ。わかるでしょ? きっとリノの父親が心臓発作を起こしたのも、妻の浮気の相手が自分の共同経営者だったってことを知ったせいかもしれない」
「ほんとうにそんなことってあるのね」
「日本ではめずらしいの? スペインとかイタリアではめずらしいことではないわ。家系や学歴をともにした仲間との共同経営が多いから、とうぜん、つきあいはいつもその家族同士になるし。妻の浮気相手は幼なじみか仕事仲間のどちらかよ。おたがいスワッピングしてたらなんの問題も起こらないはずなのに」
それから数回、彼女はリノに内緒でわたしのアパートに音楽を聴きにきてくれた。そして、女ふたりで、昼下がりの光がまどろみを誘いかけるような時間をすごした。けれども、たしか3度目だったか、とにかく、手作りの焼き菓子を持ってきてくれた昼下がりが、彼女とすごした最後になった。
バークレーで1年暮らしたあと、緒斗とわたしはナパに引っ越さなければいけなかったからだ。
そして、ワインカントリーのナパで2年を過ごし、ふたりのことが記憶から消えかけて、ふたたび、バークレーの3年に編入するために戻ってきたその秋、大学のキャンパスで偶然にもリノの姿を見かけた。
大学生協のそばにある高い天井を誇る広々した学生食堂のなかでだった。
彼は建築家の義理の父親の望み通りバークレーの環境デザイン科に入って勉学に励んでいる最中だった。
『指輪物語』のエルフみたいに美しい髪とハンサムな顔立ちはあいかわらずだったけれども、そのブルーの瞳には苦悩の影が宿っているような印象をうけた。
ほんの1年前にクラウディアとの間には男の子が生まれたけれど、彼女がマタニティブルーにおちいったとやらで、情緒不安定になり、家事どころか赤ん坊の世話すらしたがらないので、リノができる限りのことをしながら大学の勉強とを両立させようとしたらしい。けれども赤ん坊の泣き声に起こされる夜がつづき、彼は不眠症になり、勉学の妨げにもなってきたので、結局、自分の母親を迎えに来させて、クラウディアと3ヶ月の赤ん坊と一緒にスペインへ帰らせたと言った。
「残念だわ。彼女に会いたかったのに」と言いつつ、わたしは、あのとき、たぶん、直感的に、彼女はすべて計算づくだったのではないかと感じていたのにちがいない。
つまり、すべてが彼女の思惑通りに運んだのではないかと…。
1980年7月 - 1983年10月 / バークレー
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