カリフォルニア大学バークレー校の附属英語学校にローレッタという教師がいた。
白人で40代後半の彼女は背が高く、痩せていて、すこし猫背気味だった。
聞き上手で相槌(あいづち)を打つタイミングがとても上手だった。
柔和な性格のせいか生徒には人気があった。
その彼女が開催したホームパーティには中南米からの留学生やスペインやサウジアラビアからの留学生がたくさん集まってきていた。
フルーツカクテルとスナックだけの気軽なパーティだった。
サウジアラビアからの留学生はみんな独り者(ひとりもの)の男性だったが、ヴェネズエラやスペインからの学生のほとんどは夫婦で来ていたのが特徴的だった。
広い居間には、ステレオセットがあった。
だれかがキャビネットからサルサのアルバムをみつけて、かけはじめた。
すると、いままで静かだった居間がいきなりにぎわいはじめ、みんなが立ちあがって踊りだした。
わたしはヴェネズエラから来ていたベアトリーチェにサルサのステップを教えてもらった。
浅黒いセクシーな肌をもった女の子だった。
日本に連れてきたら、そのまま男性雑誌の表紙を飾るアイドルになれただろう。
わたしが踊りに夢中になっているあいだ、緒斗は居間の隅でローレッタに逆立ちのやり方を教えていた。
壁にむかってローレッタに腕立て伏せの姿勢をとらせた彼は、彼女の両足首をにぎりしめると、ゆっくりと垂直に持ちああげていき、まるでその壁にはしごをたてかけるようにして逆立ちをさせた。
緒斗はそのときすでに逆立ち歴10年のベテランだった。
彼は高校生時代に特発性自然気胸(spontaneous pneumothorax)をわずらい、2ヶ月近く入院し、手術をしたせいで、1年間休学しなければいけなかったのだが、その間にヨガにハマったおかげで、逆立ちを始め、病気で衰えた筋肉を元通りにしたらしい。
ちょうどそのパーティで、おなじようにヨガに興味を抱いていたローレッタと話がはずんだ結果、彼女に逆立ちをすすめたくなったにちがいなかった。
わたしも彼にすすめられて逆立ちを試したことはあったけれども、わたしに向いていないことはすぐにわかった。
逆立ちを終えたローレッタは感激しているようすだった。
緒斗は彼女をフロアにうつ伏せにさせると、こんどはマッサージを始めた。
ほどなくしてベアトリーチェがわたしの耳もとでささやいた。
「こんな音量でステレオが鳴ってるのに、ローレッタは眠ってしまったみたいよ」
「緒斗の手は、お金になるわ」と帰りぎわにローレッタがわたしに声をかけてきた。
よほどリラックスできたのだろう、「また緒斗にマッサージをしてほしい」とリクエストするほどだった。
そういうわけで、ふたたびふたりで彼女の家に行くことになった。
緒斗は、彼女の体に、すくなくとも、1時間くらいは触れていたかもしれない。
そのあいだ、わたしは居間にあったクラシック音楽のアルバムをえらんで、そばにおいてあった分厚いクッションの重たいヘッドフォンで楽しんでいた。
緒斗に言わせると、マッサージをしているあいだ、手指の動作とおなじレベルでほかのことにも集中できるから、次の週に提出しなければいけない小論文のほとんどを頭のなかで完成させることができて、とても効率的なのだそうだ。
彼はほんとうに満足そうな顔をしていた。
自分のためにマッサージをしているのであって、彼女のためにしているわけではなかったせいかもしれない。
音楽のおかげで、久しぶりに自分の世界へ入ることができて、わたしはわたしで幸福感を味わっていたのだが、とつぜん背後にだれかの気配を感じて、あわててふりむくと、ブル-
ネット(こげ茶色の髪)の白人女性が立っていた。
わたしがヘッドフォンをはずすのとほぼ同時に、その白人女性はローレッタの名を呼んでいた。
知的なふんいきに包まれた女性だったので、さっそく自己紹介をしようとしたのだけれども、彼女はこちらへこわばった笑みを投げたあと、サッとそばを通りすぎていった。
ローレッタはあわてて起きあがり、「あら、シャロン、ずいぶん早いお帰りなのね」と、おどろいた口調で言い、わたしたちを彼女に紹介してくれた。
その女性はローレッタの恋人で同居人らしかった。
じきにふたりは言い争いをはじめた。予定より早くボストンからもどってきたら、見ず知らずのアジア人カップルがいて、しかもそのアジア人の男性がローレッタにマッサージをしていることに腹を立てているようすだった。
じっと聞いているうちに、その女性の〈エイジャン〉(Asian)というときの口調から東洋人に対して差別意識を抱いていることがうかがえた。
ローレッタはシャロンに気兼ね(きがね)しているのか、わたしたちがここにいる理由を、なんとか釈明しようとあせっているようすだった。
そのまま耳をそばだてていると、わたしたちが押しかけてきて、おしつけがましい態度でマッサージをはじめたと説明しているのが聞こえてきた。
わたしは胸がつぶれるような思いだった。
すると、そこまで黙って聞いていた緒斗が、満面の笑みをつくり、ふたりに別れのあいさつをはじめたのだ
「そろそろ猫が腹をすかせてるころなんで、ぼくたちはこれでお暇(いとま)します。じゃあ、ローレッタ、約束通り、施術代を支払っていただけますよね」
すると、ローレッタは「オーケイ、わかったわ。リトルピーポーもちゃんと要求するのね」と言って、緒斗あてに小切手を切り、彼に手渡したのだ。
そのとき〈リトルピーポー〉という東洋人をさげすむような言葉がグサリとわたしのこころに突き刺さった。
アメリカに来てから、たしか、まだ4ヶ月目の出来事だった。
そのときまで、アジア人であることで、あからさまな差別をうけたことはなかったのだけれども、この小さな出来事から後は、心の片隅に「たとえ、表向きは、理解のある柔和な表情でわたしたちとつきあっているアメリカ人でも、〈なにか〉が起きた時には、その人のなかに隠されていた心の真実が一気に表出してくるかもしれない」という警戒心をしまっておくのは必要かもしれないとおもい、そう思ったことに悲しみと痛みを感じた。
緒斗は帰りのバスの中でこんな話をはじめた。
太平洋戦争のさなか、日系アメリカ人は財産のすべてを没収されて、強制収容所に入れられたのだ(Internment of Japanese Americans)、と。
アメリカの市民権を持っている、どこからどう考えても正真正銘のアメリカ人だったのにもかかわらず、強制収容所に送られた。
ドイツ系移民もイタリア系移民もそんな目にはあわなかった。
日系移民だけだった。
戦争という国家レベルでの事件にまきこまれた市民の運命はそんなものかもしれない、と、そんなことをいう人がいるかもしれない。けれども、アメリカの市民権をもっているひとびとを強制収容所にとじこめたことについては、どうしても、それだけではすまされない、あまりにも理不尽きわまりない出来事だったと思う。
自分たちは、あくまでも異国に住んでいるのだから、まわりにいる人々のなかには、とうぜん人種的偏見をもっている人もいるだろう。だから、それなりに〈心を守るための防弾チョッキ〉は着用していなければいけないかもしれない、と。
「つまり、これから先も、いろんな人に遭遇するだろうし、いろいろと似たようなことも起こるだろうってこと?」
「うん、そうだね」
1980年 夏 / バークレー
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