受話器を耳にあてるとガールフレンドのリヴの声だった。
『ニューヨークから火星人がやってきたんだけど、ちょっと会ってみる?』
どうせ彼女特有のジョークだろうと思ったが、かなり風変わりな友人を紹介してくれるかもしれないと期待して、くわしいことはきかず、彼女が部屋を借りていた白いヴィクトリア様式の一軒家ヘ出かけた。
わたしのアパートからは2ブロックしか離れていない。
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彼女の部屋は屋根裏部屋だった。
天井が斜めにかたむいているため低い方へいくと両手をべったりと天井の表面におしあてることができる。
同じハウスに下宿している2人の女性もバークレー校の学生だったが、その日は留守だった。
リヴとおなじく全員がユダヤ系アメリカ人だ。
リヴの部屋に入るといつもほのかにインセンスの香りがする。
ただしその日は円錐形のお香が焚かれていた形跡がなくて、代わりにかすかなオーデコロンの香りが残っていることにわたしは驚かされた。
しかも都会的で洗練された香りなのだ。
平積みにされた本の山々と、おなじく積み重ねられたヴィニールレコードのアルバムがフロアの大部分を占領しているような屋根裏部屋には場違いな香りだった。
ここはオーデコロンやパフュームなどとは縁のない部屋だし、そんな空間を支配している女がリヴなのだから。
わたしはいつもそう思っていた。
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そんな彼女に紹介された『火星人』とはリヴの実の姉だった。
ふたりを前にすると姉妹とは思えないほど雰囲気が違っていた。
リヴを宗教性抜きのジャンヌ・ダルクとすれば彼女の姉フェイは創造性抜きのマリー・アントワネットといえるくらいの差があった。
また、フェイの左手の薬指には大きな指輪がはめられていたし、その髪にはパーマがかかっていたので、似ているところと言えば、ふたりの鼻の形とぽってりした唇と上背のある体つきくらいだ。
しかも、ふたりの姉妹のあいだには斥力がはたらいているとしかおもえず、そばにいるだけで空中に静電気がたまりはじめたような緊張感がつたわってきた。
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フレンドリーなリヴが『火星人』と呼ぶほどの女性だということは、リヴですらコミュニケーションをとるのがむつかしくてお手上げ状態になるほどの人なのかもしれなくて、そういう先入観を抱いていたわたしはさらに空気がこわばるのを感じた。
家族や親族とのあいだでは、愛と憎しみ、そしや喜びや悲しみも、ひとくちで満腹になってしまうほど濃い味になりやすい。
わたしもそれは知っていた。
血縁だからこそいっそう複雑で困難な関係になることがあって、リヴがわたしに電話をかけてきたのは、自分にとって苦手な姉との緩衝材を必要としていたのかもしれない。
うまく利用されたのだ、とは感じたが、それが逆に好奇心を刺激してもいた。
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3人でカモミール茶を飲んだすぐそのあと、リヴがこう切り出したのをおぼえている。
「ようするに、他のどこにも行くところがなくなったから、わたしのところに来たってことでしょ」
「だったら?」
「わたし、まだ、学生なんだけど」
「たとえ貧乏学生でも、わたしの妹だってことに変わりはないから」
「どういう意味?」
「すこしは同情してよ」
「飛行機代、よくあったわね」
「最後の指輪を売ったのよ」
「だったら、その指にしてるのは?」
「これは見せかけ。たんなる飾りよ。お金にはならないわ」
「そこまでしてまだ『見栄』を張るなんて。さすが」
「わたしのこの指にはめてたら数千万円の指輪に見えちゃうのよ」
フェイはその偽ダイアモンド指輪をいつくしむかのように目を細めてみせた。
サンフランシスコに親友がいるので、しばらくそこへ身を寄せるつもりらしいのだが、その友だちは明日にならないと会えないらしい。
フェイが階下のトイレへ行っているあいだ、リヴが早口に説明してくれた。
フェイの夫はニューヨークで不動産投資の仕事をしていた。とても羽振りが良かったのだそうだ。ところがじつは結婚した当初からすでに多額の負債を抱えていたらしい。つまり、金持ちと結婚したつもりが、とんでもない負の財産を抱えこんだ男と結婚したことに気づいたときには、すでにおそかった。
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フェイが夢見た生活圏で暮らしている女性たちにとっては初歩的な警戒レベルなのにもかかわらず、彼女の場合は「口が達者で調子がよくて金のありそうな男に惚れやすい」弱さがあるため、それが仇になったのだろうとリヴは言う。しかも、その夫は結婚してまだ2年しかたっていないのに負債を残したまま心臓麻痺で死んでしまった。そのため妻であった彼女はビジネス上のさまざまな関係者から詰めよられたり脅迫されはじめた。おまけにフェイが住んでいた家も本当は彼名義のものではなかったのだそうだ。そのことは彼の死後にわかったらしいのだが、それだけではなくて、その家は抵当に入れられたいわくつきのモノだったため彼女はすぐさま立ち退きを迫られ、スーツケースひとつでニューヨークから夜逃げしてきたのだという。
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「組織犯罪に手を染めているような人たちも関わっていたみたいだし、けっこう怖い世界なのね。そのくせ姉貴ったら自分の夫がどんな人たちから資金を援助してもらっていたのかも知らなかったくらいだから」
「あなたのおねえさん、しばらく両親の家に住まわせてもらうことはできなかったの?」と尋ねたらリヴは次のように返してきた。
姉は父親に電話したそうなのだが、あっさり断られたという。鉱物学が専門で大学で教鞭をとっているのだが、リヴとフェイの声を聞き分けることすらできないほど研究一筋の人だから、経済的な窮地におちいっているような長女と一緒に住んでくれるはずがないという。
「なにしろ自分の妻が癌(がん)で入院しているのにもかかわらず見舞いに行くのは月に1度きりって人だから」
リヴの母親は乳癌をわずらったらしい。
発見がおそかったために薬物療法の効果はたいして得られず、実家の寝室で家族との別れを告げるためにみずから退院をのぞんだという。
リヴはまだ高校生で、そのころ、父を心の底から憎んでいたという。
そもそも姉のフェイがここに逃げこんできたのもそんな父親のせいだというのが彼女の見方だった。
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リヴは自分の姉が同じ屋根の下にいるという状況そのものに耐えられないようすで、話しているあいだ、その内容とはかかわりなく憎々しげに口をゆがめたかとおもうと、とつぜん肩をまわしはじめたり親指の爪を噛みはじめたりするのだった。
「ね、リヴ。そうとうストレスがたまってるんじゃない?」
「え? どうして?」
「目に見えてつらそうなんだけど」
「あ、これ? 気にしないで。昔のクセがもどっただけだから」
犬猿の仲とはこういうものなのだ。そう感じていた。
わたしにも姉が二人いて同じようにむつかしいものがあった。
東京の大学を受験するために、すでに結婚していたいちばん上の姉の家に泊まることになったのだが、二番目の姉がわたしに付き添って一緒に東京に行きたいと言い出したのだ。わたしは付き添いなんかいらないと言い張ったのだけれど、彼女は父にふたり分の航空券をおねだりし、強引にわたしについてきた。
もともとわたしは飛行機が苦手だったので「飛行機には乗りたくない、それよりも夜行列車のほうがいい」と言ったのにもかかわらず、父は二番目の姉の押しの強さに屈服してしまったのだ。
彼女の目的が東京でのショッピングを楽しむためだとわかっていたはずなのに。
いや、じっさいにその目的だけだったら、まだ、わたしは救われたかもしれないが、大学受験の前夜にその二番目の姉がいちばん上の姉と口論をはじめたときには「あのふたり、また始まった。もうダメだ」と観念した。なにしろふたりの声が2階の寝室にまで届くほどになっていたのだから。ふたりの議論と口論はおさまりがつかなくなり、しだいに罵り合いに近くなって、それが夜更けまでつづいたため、わたしはけっきょく一睡もできずに苛立つ心をなだめつつ受験場へむかい、第一志望の大学は見事に落ちてしまった。
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そんなことを思い出しているうちに、リヴの姉が屋根裏部屋にもどってきた。
固定電話を使わせてもらっていたのだ。
フェイはさきほどとは打って変わった明るい声で言った。
「なんとかなりそうだわ」
「長電話だから心配になってたのよ。彼女、明日、ほんとうに姉貴に会いに来てくれるの?」
「それがね、じつは今から迎えにきてくれることになったの」
「え? 今って、今?」
「いざとなったときに頼れるのは、けっきょく親友だけね。親も妹もまったく役に立たないし」
「だったら、今すぐ出て行ってもらってもいいのよ」
「がまんがまん。あともうすこしのことなんだから」
「ふん。それにしても、わざわざ迎えにきてくれるなんて」
「あたりまえでしょ。彼女とわたしの仲だもん」
リヴの話によると、姉のフェイを迎えにきてくれる女性は、少女時代から高校時代までずっと仲の良かった友だちで、いつもリヴの実家に入り浸りだったらしい。
リヴのこともまるで『ペットみたいに』かまってくれたのだそうだ。
その親友は複雑な家庭環境に置かれていたらしい。そして、そのことを知っていたからこそリヴの母親は娘の友人をしょっちゅう家に泊めてやり、ふたりだけの外出も、夜の9時前までに帰宅するという約束で容認していたらしい。
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フェイはわたしが存在していないかのように自然な口調でリヴに話しかけていた。
「彼女と一緒にベガスに行くのよ。いいでしょ」
「いったいなにを考えてんの? 元手となる資金がゼロどころか、借金取りから逃げてる最中なのに」
「知ってる? 彼女、セミプロのギャンブラーなのよね。しかも、最近、好調らしいの。それに、わたしたち、互いの気心が知れてるから、きっと上手くいくわ」
「いつも夢みたいなことばかり言ってんだから」
「そんなあんたはなにをするにしても臆病だからお金が逃げていくのよ」
「それはあたしのセリフでしょ。どうせ姉貴の目当てはラスベガスで金持ちを見つけることなんだから」
「それ以外にあんな砂漠のどまんなかのちっぽけな街に行く理由なんてあんの?」
「でも、ベガスで見つかる金持ちなんて、3日先のことはわからない連中にきまってるわよ」
「そういう男の匂いをちゃんと嗅ぎ分けることができるのが、このわたし。心配しないで」
「その鼻がにぶいからこうなったんじゃないの? とにかく、上手くいってもいかなくても、ここには2度ともどってこないでね」
「わかったわよ。冷たい妹ね」
「それ、ぜんぶ、姉貴のせいだから」
「とにかく、ちょっとベッド借りるわね。すこしお昼寝したいから」
リヴとわたしはまるで人払いをされたかのようにしてその部屋を出た。
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フェイが昼寝をしている間、わたしたちは階下の居間でぼんやりテレビを見ていたが、一時間もしないうちに、クルマのクラクションが鳴って、屋根裏部屋からリヴの姉が降りてきた。
ゴトンゴトンと階段をこすりながら近づいてくる大きなスーツケースの音が忘れられない。
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家の前に停車しているフォークスワーゲン・ラビットの運転席にはリヴの姉の親友らしき女性がこしかけていた。金髪でフレンドリーなふんいきが感じられたが、こちらに向かって軽く手をふっただけで、フェイが助手席に乗りこむと同時に発進させ、ふたりの甲高い笑い声を残したまま、その小柄なコンヴァーティブルは視界から消えた。
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「あのふたり、うまくいくといいね」とわたし。
「姉貴はね、わたしとちがって男をそそるのが上手いのよ。どこで学んだのかわかんないけど、うちの家からああいうタイプが出てきたのは、もう奇跡としか言いようがないわ」
「指をクロスさせて祈ってみるね。あなたのためにも」
「たしかにその通りだわ。まずは当座のお金を手に入れてもらわなきゃ。なにしろこっちは貧乏学生なんだから」
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1981年 初春 / バークレー
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