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  • 執筆者の写真香月葉子

【バークレー】フォード・マスタングと炊飯器でロサンゼルス珍道中

更新日:6月25日


 米国に渡って3ヶ月が過ぎようとしていた。


 9月の初旬で、ちょうど英語学校の最初の学期(クォーター)が終わったころ、緒斗とシャタック通りをぶらついていたとき、個人経営のレンタカー店を見つけて、そこで緑色のフォード・マスタングを借りることになった。

 そのあと、なぜ借りたくなったのかもわからないまま、せっかくドライブができるのだからと彼を説得し、気がついたときにはサンフランシスコのチャイナタウンへ向かっていた。


 フォード・マスタングが大好きだったし、ぐうぜんにも父から内緒の仕送りがあって、予想外のお小遣いが入ったおかげでもあった。

『龍の門』をくぐって急な坂道をのぼると、さまざまな匂いがまといついてきた。

 大きなカゴのなかには、みずからの運命を悟ったかのように歩行者をながめているニワトリやウズラなどがいた。

 わたしは、チャイナタウンを見ることができただけではなく、念願の小ぶりな炊飯器と中華の食材を買うこともできて、とてもうれしかった。

 日本製の炊飯器(Rice Cooker)をさがすのには苦労したけれども、バークレーの電気店で見たことのあるものと同じものが安く売られているのを見つけたときには胸が高なった。

 緒斗は外箱だけではなくて炊飯器そのものも見せてくれとせがんで、まちがいなく日本製なのかどうかをたしかめていた。

 その炊飯器をマスタングのトランクにおさめ、サンフランシスコの街のなかをクルージングしたあと、はじめて金門橋(Golden Gate Bridge)を渡ることになった。

 わたしは助手席に腰かけて景色をながめているときの時間が好きで、金門橋へ行く途中も、ずっと、むさぼるように窓の外を見つめていた。

 ただ、目に入ってくるカフェやレストランや会社の名を、ときおり、思い出したかのようにつぶやくクセがあって、彼は「犬みたいに黙りこくって外をながめているかと思ったら、とつぜん子供みたいに街を読みはじめるんだね」と笑うのだった。


「ロッシのピッツァハウス……ニーマン・マーカス……ユニオン・スクェア……チョーのチャイニーズレストラン……テッドのハードウェアショップ……」


 それはいまでも変わらない。

 窓の外を流れていく街景色は、まるで飛び出す絵本みたいにわたしを魅了しつづける。

一生を、走りつづける車のなかで過ごせたら、どんなに素敵だろう。

 真紅の金門橋は想像していた以上に壮大で、あおぎ見ているあいだ、息をするのを忘れていた。

 サンフランシスコを後にすると、バークレーへもどり、そのままギリシャ劇場(The Greek Theatre)と呼ばれる古代ギリシャの円形劇場を模した野外ステージのある丘へと向かった。

 楽しみにしていたジェフ・ベックのライヴ・コンサートを見るためだ。

 大学の生協で買ったチケットはバッグに入れたままだったので、アパートへもどる必要はなかった。


 すり鉢状になった野外ステージは、1980年代に日本に登場した『よみうりランド・オープンシアター・イースト』をおもわせるものだ。

 かなりうしろのほうの席だったけれど、バークレー校のキャンパスを眺め下ろすことができた。

 暮れていくカリフォルニアの深い青空のなかを、旅客機の両翼についているストロボライトが、チカっチカっと点滅しながらよこぎっていくのが見えたかとおもったら、あちらこちらから夜風にまじってマリファナの香りが流れてきた。

 生のバジルの葉をおもわせる大麻の芳香につつまれていると、じっさいにマリファナ(weed/pot/grass)を吸わなくても、ふいに時間が止まったように感じられたり、人々の動きがスローモーションに見えたり、つい数秒前まで何をしていたのかわからなくなったり、舞台照明に目をむけるたびに後頭部が甘く麻痺するような感覚をおぼえたりした。

 そこへ天空へ突きぬけていくようなジェフベックのギターソロが追い討ちをかけてくるので、ますますハイな気分になってしまい、コンサートが終わっても、その気分に背中をおされて、けっきょく緒斗と目的地もなくドライブをすることになった。

 北部カリフォルニアの夜空は星に埋めつくされていた。

地図もなしにあてもなく走っていたため、道路標識に記された地名は意味をなさなかった。

 けっきょく、ふたたびサンフランシスコへ向かうことにして、ベイブリッジを渡り、夜の街路を、縫うようにしてクルージングしていると、ある標識がわたしの目に飛びこんできたのだ。

『こっちはロサンゼルス、あっちはアンカレッジ』というシンプルなもので、水平にひろげた両腕のような矢印が『こっちとあっち』を示していた。

「ね、ロサンゼルスって行ってみたくない?」

「いいね。ロサンゼルス、見てみたいな」と緒斗は少年のような笑みを向けた。

「まだ夜の11時をすぎたばかりだし」

「でも、ここからどのくらいあるんだろ。地図、持ってないから、そこんとこがよくわかんないけど」


 そのことに不安すらおぼえなかったのが不思議でしかたがない。


 地図も知識もない、ということは、あるひとつの地名から別の地名までの距離や位置関係を知るための手がかりを、まったく持っていないという状態なのだけれども、助手席に身をあずけ、夜風を頬に受けているだけで、わたしはとても幸せだった。

 緒斗は国道101号線という標識をたよりにフォード・マスタングを飛ばした。

背骨をふるわせながらはいあがってくるその独特のエンジン音がわたしは気にいっていた。

 そのうち、3時間ほど走りつづけたあたりで、だんだん喉も渇いてお腹もすいてきた。けれどもレストランらしきものがみつからない。アメリカの市街地には日本のようにファミリーレストランがあるわけではないらしい。


 わたしたちは、喉の渇きと空腹に耐えながら、夜闇のなか、そのまま国道101号線を走り続けた。


 片道3車線ほどの広々した道路をヘッドライトにみちびかれていると、ひとつのラジオ局が遠のいて別のラジオ局が入ってくるようになり、音楽もジャズからロック、ロックからポップス、ポップスからジャズへと変わった。

 そのたびにツマミを微調整しているうちに、ようやくレストランをおもわせるネオンサインが目に入ってきた。

『キングシティ』と記された標識を通りすぎたあたりでクルマをとめ、ハリウッド映画のなかに出てくるモーターサイクルギャング〈ヘルズ・エンジェルス〉たちが立ち寄りそうな店に入ると、薄暗く、ミッドナイトをまわっているというのに、カウボーイハットをかむった中年の男性たちが3、4人ほどカウンターに腰かけてビールを飲んでいた。


 ほんとうにハリウッド映画のなかに出てくるバーそのもののような店内で、奥にはビリヤードテーブルがあり、その台をかこむようにして、おなじく3人くらいの年配の男性たちがビールを飲んでいた。

 彼らは私たちを目にしたとたん、まるで瞬間冷凍されたかのように顔をこわばらせて動かなくなった。

 しかも全員がほぼ同時に。

 このあたりの土地の人間だけで、しかも白人だけの仲間とくつろいでいた深夜のこんな時間帯に、いきなり東洋人の若いカップルが飛びこんできたのだから、驚かないほうがおかしいかもしれない。


 わたしたちはわたしたちで、そんな彼らの反応に、まるで異世界に投げこまれたかのような感覚に囚(とら)われた。

 とりあえず、ぶあつい木製のカウンターにならんだ背の高い丸椅子に腰かけたのだけれども、手をあげて微笑みを投げても、大柄な年配のバーテンダーは、それとなくこちらを見ただけで、注文をとりに来てくれない。だからわたしは、緒斗が早足でトイレへ向かったとき、丸椅子から立ちあがり、彼の真正面まで行ってコーラを注文した。

 すると、ふいに彼が頬をゆるめたのだ。

 おそらく、わたしたちが英語を話せるのかどうかわからず、それが彼の心配のタネだったのだろう。

「この時間にはもう食事は出せない」と言うので、白人男性たち全員の視線を浴びながらも、緒斗とわたしはゆっくりとコーラを飲んで、飲み終えるとすぐにその店を出た。


 モーテルに泊まればなんとか食べ物にありつけるかもしれない、という心細いくせにあふれる期待感を抱きながらクルマを走らせていると、ようやく道路沿いにモーテルのネオンサインを見つけた。

 こじんまりしたモーテルだった。


 受付にでてきたのは褐色の肌をしたインド系の痩せた青年だった。


 緒斗が値段の交渉をして、42ドルのところを28ドルで泊まれることになったが、日本のラブホテルとはちがって、部屋の中には冷蔵庫がなく、ポットもないし、インスタントコーヒーも紅茶もなく、お菓子類もなかったので、けっきょく空腹のまま過ごすしかなかった。

 シャワールームは清潔で、テレビがあり、ベッドは大きかった。

 冷蔵庫がないのは、もしかしたらワケありの部屋の鍵を渡されたのかもしれない。

 彼自身がベッドのなかで「たぶんおれが値切ったせいだ。ちくしょう」と憎々しげにつぶやいていたのでわたしもそう信じるようになった。


 とにかく、おなかが空いていただけではなくて、モーテルの通路に大きな製氷器が設置されていて、それが氷が落ちるたびにゴトンゴトンと音をたて、それがひと晩中鳴りひびくので、それが気になって眠りは浅かった。

朝の新鮮な空気を吸いこむと、そろそろこのあたりでバークレーに戻ったほうがいいのかもしれない、という気持ちが一転して、緑色のマスタングのトランクに炊飯器を乗せたまま、さらに南へと向かうことに決めた。

 あいかわらず地図はなく、あいかわらず空腹で、ふたりが知っているカリフォルニアの地名といえば、あいかわらずサンフランシスコとバークレーとロサンゼルスだけだったけれど、行き当たりばったりの旅になるということで気持ちが高まっていた。

 わたしたちは、モーテルをあとにしてすぐ、ハイウェイ沿いに、〈ウェンディーズ〉をおもわせるレストランを見つけて、コンチネンタルの朝食をたのしんだ。そして、食べ終えたころには、ベイエリアへ引き返さなければいけないという気持ちが、きれいさっぱり消えてしまっていた。


「このままロサンゼルスまで行ってみようよ。さっき、『LAまで200マイル』って書かれた大きな道路標識があったよ」とわたし。

「てことは、およそ300キロ以上か」と緒斗。

「どんな街なのか見てみたいな」

 すると、緒斗はためらいがちではあったが、うなずいた。

「ま、せっかくこうしてクルマを借りたんだし、ハリウッドにも行ってみたいしな」

「だったら、まず、レンタカーのお店に電話をかけなくちゃ」

「え? なんで?」

「だって契約とはちがうことすることになるし。延長料金が加算されていったら、とんでもないことになってしまうかもしれないし」

「あ、それはまずいよね」

「わたし、かける」

「いや、おれがかける」


 1Dayレンタルの契約だったので、返却日の延長を申し出なければならなかった。というよりも、レンタカーのシステムに無知だったので、そのときは、そうしなければならないと思っていた。


 空をあおぎ見ると、昨日までと変わらない、雲ひとつない青空がひろがっていた。

 目に沁みるような青空だったのをおぼえている。

 彼がもう1日延長したいと言うと、かなり弾んだ調子の男性の声が「どうぞ思いっきりドライブをお楽しみください。わざわざそのことで電話をかけてきたお客さんは初めてですよ」と言っているのが聞こえてきた。

 相手の声が大きすぎたせいで、緒斗が受話器をすこし耳から離したためだろう。


 気をよくしたわたしたちは、標識にしたがいながら、ひたすらLAをめざして、国道101号線を突っ走った。

 ランチタイムをすぎたLAのダウンタウンは暑かった。


 地図を持っていないのでダウンタウンのどこを走っているのか皆目わからなかったが、大通りにはいくつか映画館があって、いずれの映画館の前にも人々の長い行列ができていた。話題になっている映画でも公開されているのだろうかとおもって看板をながめたのだけれどもわたしたちがまったく知らない映画だった。記憶にも残っていない。気だるそうに入場を待っていたのは、みな、黒人のカップルばかりで、ほとんどの人が半裸に近いようなタンクトップ姿だった。

 路面にべったりと低くひろがった感じの大きな自動車がすぐそばにやってきて並走しはじめた。

 手をのばしたら、おたがいに握手できるような近さだった。

 車内から、上半身裸の黒人青年たちが、じっとこちらをうかがっていた。

 わたしが車内から手をふって笑みを投げると、このあたりのことを何も知らない旅行者だとみてとって安心したのか、とつぜんスピードをあげて角を曲がっていった。

 窓を開けると、空気は重く、濃い排気ガスの臭いをふくんだ湿り気が、肺の奥にたまっていくのを感じた。

車窓から見えるロサンゼルスの高層ビルディング群は陽炎のようにゆらいでいて、自動車の流れだけではなく歩道をゆく人々の動きまでもがすべてスローモーション映像のようだった。

 わたしはいままで見たこともない経験したこともない不思議な風景にのみこまれていたのかもしれない。

 子供のころに見ていたシリーズもののテレビドラマ『サンセット77』がわたしの記憶にきざみこんだ、カジュアルでお洒落、そのくせリッチな、あのロサンゼルスの雰囲気とはまるで違っていた。

「そろそろこのあたりからは出たほうがいいと思う」と緒斗。

「わたしもそう思う」


 緒斗は来た道をもどっていき、ふたたびフリーウェイに入ったが、ほんの5分くらい走ったところで、マスタングのボンネットから白い煙が吹き出しはじめた。

 ほんの30メートルくらい先に、帰路へつながる高速道路へ入るためのジャンクションが見えていたのだけれども。

 緒斗は英語で「ファック」と怒鳴って乱暴にステアリングウィールを叩いた。

 カタツムリのように徐行して、なんとか安全に停車できる場所を見つけ、三角コーンを配置したあとに、ボンネットをひらいた緒斗がもどってきた。

「あ~あ、オーバーヒートしちゃったみたいだ」


 つぎからつぎへと接近してくる車が、わたしたちのすぐそばを時速100キロを超える速度でかすめていくのが怖かった。

「向かってくる車から目を離しちゃダメだよ」と言われたので、この場からいつでもすばやく逃げられるように身がまえていた。

ロサンゼルスに行きたいと言ったのはわたしだったので、後悔と不安で泣きだしそうになった。

 じきに煙はおさまったが、わたしたちはフリーウェイの安全地帯で、エンジンが冷めるのを待つことにした。

 そのあいだに緒斗はフリーウェイに備えつけられているはずの緊急電話機をさがしてみようと言いはじめ、わたしをこの場に残していくとさらにストレスがたまるからという理由で、わたしの手を引っぱるようにしながらさがしたのだけれども、けっきょく見つからなかった。

ナビも携帯電話もない時代で、はじめておとずれた馴染みのない場所で、しかも日本ではないのだ。

 ふたたびエンジンをかけようとしたけれどダメだった。

「困ったな」と緒斗。

 とにかくガスステーションを見つけなければならなかった。

 けれども、幸いなことに、それから三十分ほどたつとエンジンがかかったので、ジャンクションの坂の途中から、車を〈ニュートラルでコロがしながら〉カーヴをぬけて、ゆるゆると街に入ることができたのだけれど、そのときの加速を利用して、もうひとつ目の前に迫ってきたなだらかな坂を越えようとしたところが、坂の上までほんの数メートルというところで、ついに車が動かなくなってしまった。


 彼はサイドブレーキをかけ、サンフランシスコの坂の斜面で駐車するときと同じようにステアリングウィールを切ったあと、外へ出た。

「どうなってるか見てくる」

 そして坂の上まで行ったとおもったら、すぐさま駆け足でもどってきて、助手席の扉をあけ、わたしを車外へ引っぱりだしたのだ。

「来てごらん。こっちこっち」

 坂道の下のほうにはT字にまじわる広い道が走っていて、そこに整備工場を併設した大きなガスステーションがあるのが見えた。

「信じられない。あそこまで行ければいいのね」

「だけど、ふたりであのマスタングを坂の上まで押して行くなんて、まずぜったいに無理だしなぁ」

 緒斗は落胆したようすでマスタングをふりかえった。

 遠くには林立するロサンゼルスのビルディングがかすんでいて、空はしだいに黄昏の色に染まりつつあった。


「ガソリンスタンドの人に頼んだらなんとかなるかも……」

「だれか呼んできてもらえるかな。ここに車をおきっぱなしにするのはヤバイから」

「うん、わかった。わたし、行ってくる」


 ちょうどわたしが坂をおりていこうとしていたとき、どこからか数人の少年たちがあらわれて、近づいてきた。上半身が裸の子もいた。みな褐色の肌をしていて、スペイン語で話しかけてきた。まったく英語がわからないようすなので、このあたりは、〈チカーノ〉と呼ばれるメキシコ系のアメリカ人が住んでいる地区かもしれないとおもった。

 緒斗とふたりで、手ぶり身ぶりで状況を伝えていると、どこからともなく、さらなる子供たちが集まってきて、いつのまにか、上は14、5歳から下は7、8歳くらいまで、12、3人にもおよぶ少年たちがわたしたちを取りかこんでいた。

 たぶん、家の窓から、いままで見たこともない東洋人のカップルをじっとうかがっていたが、手ぶり身ぶりでその東洋人カップルとなにかを話している自分たちの仲間を見て、ぞろぞろと姿をあらわしたのかもしれなかった。


 彼らの手ぶりから、坂道の下のガスステーションまで、みんなでいっしょにクルマを押してくれるらしいことが、なんとなくわかってきた。


 緒斗が車に乗ると、子供たちがクルマを押し始めた。

 あっという間に軽々と動きはじめたことにおどろかされた。

しかも、ふたりの少年が交差点のまんなかに立って、行き交うクルマを停止させ、まるで警官なみにわたしたちの車をガスステーションまで誘導してくれたのだ。

 わたしは彼らひとりびとりにお辞儀をしながらお礼を言った。

 そのお辞儀をマネして楽しげに笑う子供たちもいた。また、年上の少年の陰に隠れながら、チラチラとわたしを盗み見ている人見知りの子供もいた。

 ことばではコミュニケーションをとることができなかったけれども、数人の子供たちが小声で緒斗のことを「ブルース・リー、ブルース・リー」と呼びはじめたのは聞き取れた。すると、なぜかわからないけれども、緒斗は無邪気なキッズたちの要望に応えようとして、ヌンチャクをふりまわすポーズをとり、ブルース・リー独特の叫び声まであげて、それを見た子供たちみんなに歓声をあげさせた。


 そんな子供たちが去ったあと、緒斗はガスステーションの整備士たちに、マスタングのボンネットを開けて状況を説明した。

 整備士たちもあきらかにメキシコ系アメリカ人だとわかる顔つきと肌の色をしていた。

 英語がほとんど理解できないどころか、まったく話せないらしく、緒斗が何をたずねても「だいじょうぶです」とか「まかせてください」というときに使う「Sure」(シュア)ということばしか返ってこないのだ。

 スマホもグーグル翻訳もない1980年のことだから、スペイン語の話せないわたしたちにはどうしようもなかった。

美しい褐色の肌をした彼らに「明日まで修理できそう?」とたずねると「Sure」(だいじょうぶ)と答えるし、「修理代はどのくらいになりそう?」とたずねたら「Sure」とうなずくし、「修理が終わったら、何時ころに受け取りに来たらいいのか?」という質問にも「Sure」と指でOKサインをつくってみせるだけだった。

 しかも困惑したような表情をするどころか、うれしそうな自信たっぷりな笑顔で「だいじょうぶ」と応えるところが、唯一の救いであり不安の種でもあった。

 とにかくクルマをあずかってくれるのだから、なんとか修理をしてくれるのにちがいない。

 そう信じるしかなかった。

 わたしたちは、トランクに炊飯器を入れたままのマスタングをあずけて、不安な気持ちを抱えつつ、暮れてゆく見知らぬ街のなかを歩いた。

あたりを見まわすと、窓に鉄格子のある商店ばかりが目に入ってきた。

 歩き疲れたころ、ようやく小さな街中のモーテルを見つけたのだけれど、その扉と窓にも鉄格子がはめられていた。

 インターフォンで空き部屋がないかをたずね、「ビー」という音が鳴っているあいだに鉄格子の扉をあけて中に入ることができたとおもったら、ふたたび頑丈そうな鉄格子の扉が立ちはだかっていて、奥から姿をあらわした宿主と思われる中年の白人女性にわたしたちのパスポートを見せたあと、ようやくその扉をあけてもらった。

「夜は出歩かない方がいいわよ。でも、おなかが空いてたら、ここから2ブロック先にあるピザ屋が美味しいから、お試しあれ」

 彼女にたずねたところによると、このあたりはロサンゼルスのイーストサイドという区域らしかった。


 わたしたちは交差点の角にあったピザ屋で夕食をとった。

 緒斗はわたしにいろいろと話しかけてきてくれたが、わたしの頭はさまざまな心配と不安とに占められていたので、うなずくのが精一杯だった。

 彼にうながされてピザを口に運ぶのだけれども、緊張したノドにピザのクラストを詰まらせないように咀嚼(そしゃく)するのが精一杯だった。

 何を噛んでいるのか意識すらしていなかったとおもう。


 ピザ屋を出たときにはもうすっかり陽は落ちていた。裸電球の多い街だった。人通りはほとんどなかったが、夕暮れ時よりもいっそう危ない雰囲気に包まれているのは、通りの曲がり角で群れている上半身をむきだしにした筋骨隆々の青年たちを見ればわかった。

 上背のある緒斗をじっと観察しているような青年たちがいたし、三人のチカーノは、すれ違いざまに(俺たちの縄張りに入ってきやがって)と威嚇するような目つきをして通りすぎていった。

 ところが、ほんの二時間ほど前までそんな雰囲気だったのに、深夜をすぎた街は不思議なほど静かだった。

 静けさのあまり(わたしが遠乗りをせがんだせいでこんなことになってしまったのだ)と、大きすぎるベッドのなかで、朝方まで後悔にさいなまれたわたしは、眠ったのかどうかわからないまま目をさました。


 朝になって宿主の女性に教えてもらった『Bank of America』で小切手を現金に換えた。


 昨日のガスステーションをたずねると、白人の太った中年男性が出迎えてくれた。

 わたしたちの緊張した面持ちを察してくれたのか、英語でにこやかに「修理は終わってるよ」と話しかけてきて、事務所に通してくれた。

 わたしたちをソファにこしかけさせながら、自分がこのショップのオーナーだと言った。

「オイルフィルターが汚れすぎていて使い物にならなかった。まったくひどいレンタカー屋だね。君たちが修理代を払いもどしてもらえるように、手紙と書類を用意しておいたよ」

 温かい思いやりのこもったそのことばのおかげで、ようやく不安が消えたものの、昨日、電話ごしに聞こえてきたレンタカー店の男性の『どうぞ思いっきりドライブをお楽しみください』という妙に弾んだ声が思い出され、くやしさがこみあげてきて、奥歯を噛みしめずにはおれなかった。

 ろくにメンテナンスもしていない車を客に貸し出すなんて……。


 生き返った緑色のマスタングに乗ったわたしたちは、カリフォルニア州の内陸部を縦に突っ切る5号線に入り、バークレーをめざして、ひたすら北上した。

「まるでちがうクルマを運転してるみたいだ。走りがいい」

「よかった。そう言えばエンジンの音も違うみたい」

 どこまで走っても一直線で、なだらかな茶色の起伏と広大な茶色の平原がつづいた。

 そんな5号線の変化のない景色に退屈したわたしは、窓を全開にして『オー・ソレ・ミオ』を歌った。

 大声だったけれど、歌詞を知らないので、すべて「ラララ」に変えて歌った。

 すると緒斗も、『オー・ソレ・ミオ』の旋律を、まるでオペラ歌手のように太い声で、「ラ・ラーラ・ラァ〜ラ、ラ・ラーラ・ラァ〜ラ」と合唱しはじめた。

 熱い風が頬をうち叩いて爽快だった。


 太陽が真上にきたころ、長髪をなびかせながらハーレーダビットソンにまたがった男たちの集団が追いついてきた。彼らはおなかに響く低いエンジン音をひびかせながらそばを走りつづけた。わたしがカンツオーネ『サンタ・ルチア』を「ラララ」で歌いながら彼らに手を振ると、彼らはハンドルバーから手をはなし、両腕をひろげて応えてくれた。

 体が一瞬のうちに水滴になって飛び散ってしまうような開放感だった。

 けっきょく、フォード・マスタングから降りたくなくなったわたしは、緒斗とバークレーへもどることはやめて、さらに北へとクルマを走らせ、炊飯器をのせたまま、その日の夜のうちにネヴァダ州のタホ湖へ行き着いたのだった。









1980年 夏の終わり / ロサンゼルス




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