緒斗(おと)とヘイスト通り2115のアパートメント3階の303号室に住んでいた。
そのアパートのマネジャーをしているテッドに子猫をもらったのだ。
もらった、というよりは、彼に押しつけられた、と言ったほうがいいかもしれない。
テッドは金髪の巻毛が似合うハンサムな青年だった。
カリフォルニア大学バークレー校のビジネススクールの学生で、そのアパートの持ち主の息子だった。
彼がマネジャーとしてこのアパートの一階の端っこの部屋に引っこしてくる前は、数学専攻の大学院生のジムがマネジャーだった。
ジムはぼってりとした大柄の白人で、23歳だとは言ってはいたが、40に近い男性に見えた。
語尾のはっきりしない口調でボソボソと話すため、賃貸契約の内容を理解するのがむつかしかった。
異国ではじめてアパートの契約をするということで不安ではあったけれども、大学のキャンパスにいちばん近い高価なデュラントホテルに1週間も滞在していたため、金銭的にはもう余裕がなかった。
どこでもよいから、とにかく早く安い部屋をさがして腰をおちつけたかった。
そんなときにこのアパートメントを見つけたのだ。
家具付きで、しかも賃貸料には光熱費と水道代がふくまれていたため、ガス会社や電力会社との契約の必要すらなかった。
つまり必要最小限の寝具と食器を買うだけで新生活をはじめることができる。
そのことに胸が高鳴った。
契約後、ようやくホテル生活に別れを告げることができた。そして当時マネジャーをしていたジムの部屋のとなりで暮らしはじめた。それがヘイスト通り2115にあるアパートメントの3階の303号室だった。
でも、ホテルを去ることはできたけれど、新しい部屋をととのえることに忙しくて、日々の暮らしに欠かせない安くて美味しいサワードゥを売っているパン屋を見つけることができたのは、それから3ヶ月後、ようやく9月に入ってからだった。
サンフランシスコの名物のひとつとして知られているサワードゥは、朝と夜の食事には欠かせなかったし、緒斗の弁当用のサンドイッチにはとくに必要なものだった。
カイザーロールやベーグルに、オムレツやベーコン&ほうれん草炒めのような、時間がたっても傷まない料理をはさむことはあったけれど、酸味と噛みごたえと食べごたえのあるサワードゥには、とてもおよばなかった。
それに彼はなにを食べても限度がないのだ。
緒斗のおなかは異次元につながっていて、そこの秘密処理場で、食べたものを瞬時に焼却しているのかもしれない……。
たしか彼とそんな会話を交わしているときだった、部屋のドアをノックする音がしたので、ひっそりと立ちあがり、窓におろしたブラインドのすきまに指をさしこみ、横のほうからドアの正面あたりを盗み見た。
背の高い白人青年が立っていた。
見たことのない青年だった。
ドアをあけると、彼はさっそく早口で自己紹介をはじめてテッドと名乗り、今日から自分が新たなマネジャーになったと告げた。ところが、こちらは、となりの部屋の住人でマネジャーでもあるジムに賃貸料の小切手を手わたす準備をしていたところでもあったので、かなりおどろいて、いまの説明を裏づける身分証明書と書類を見せてもらうまで彼のことばを信じることができなかった。
そんなテッドが、それから10日も経たないうちに、ふたたび303号室をノックしたのだ。
緒斗とはもうすっかり親しくなっていた。
それでも彼からいきなり「子猫を飼うつもりはないかい?」とたずねられたときには、さすがに緒斗と顔を見合わせるしかなかった。
テッドの説明によると、彼がここに引っ越してきてすぐに、1匹の猫が彼の部屋をたずねてくるようになった。しかもドアの前にちょこんと行儀良くすわって、彼が部屋の中にいれてくれるまで、小鳥のさえずりのように綺麗な可愛らしい声で、おねだりしつづけるという。
「きっと、その子の元の飼い主が、あなたの今の部屋に住んでたのよ」
「ぼくもそう考えて記録を見たんだけど、今の部屋はずっと空き部屋だったんだ。改装してぼくが住みはじめる前までの2年間、だれも住んでなかったんだよ」
「不思議ね」
「ほんとうに不思議だよね。思い出のなかのだれかとまちがえてるのかな」
横から緒斗が口をはさんだ。
「だとしたら、子猫の思い出のなかのそいつは、まちがいなく、きみにそっくりだったのにちがいない」
テッドは笑った。
「たぶんね。匂いまでおなじだったのかもしれないな」
テッドはその猫の声があまりにも可愛らしいので、ついついドアをあけて部屋に入れてしまい、けっきょく3日前から飼いはじめることになったと語った。
「せっかく世話をしはじめたのに、どうして、わたしに?」
「大学の勉強とマネジャーの仕事のふたつにはさまれて、もうこれ以上猫にかまっていられなくなったんだ」
それを差し迫ったような目つきで言われても、こちらにも猫を飼う余裕はなかった。
生き物を飼うのは玩具(おもちゃ)を買うのとはちがう。
たいへんな責任が生じる。
しかも、これから先、緒斗がどこの大学に受かるのかすらわからない。
このままテッドの話にずるずる耳をかたむけていると、「その猫、わたしが飼います」と言い出すのにちがいない自分がいることもわかっていた。
しかも、すぐかたわらで彼の説明に耳をかたむけている緒斗は、同じく大の猫好きだ。
早くその猫を見たくてたまらないらしく、どのくらいの大きさなのか、ショートヘアなのかロングヘアなのか、どんな種類なのか、なにかの病気を持っているのではないか、とこまかな質問をしはじめていた。
そこへテッドがたたみかけるように言ったのだ。
「じつは、道をわたってすぐそこに、けっこう立派な動物病院があるだろう? あそこにつれていって、すでに、健康診断とワクチン接種をした後なんだ。だからとても綺麗な子猫だし、健康だし、しかも安全だよ。くわえて容姿端麗なんだ」
まるでその子猫をわたしたちが飼うことを前提に免疫注射をしたとでも言いたげだった。
ほかにもアパートの住人はたくさんいるのに、テッドがなぜこの話をわたしたちに持ちかけてきたのか、不思議でたまらなかった。
猫好きであることを表明するようなメッセージの書かれたTシャツを着ていたわけでもないのに……。
もしかしたら、わたしたちは、ふたりとも、お人好しの日本人に見えていたのかもしれない。だから、これから先の生活にも影響をあたえるような〈生き物を飼う〉という大変なことを頼んでも、その場で承諾すると思ったのにちがいない。
「とにかく、その子猫、見せてもらえないかな?」と緒斗。
「そろそろ、外からもどってくる時間だから、連れてくるよ」とテッド。
けれども、その日、夜遅くまで待っていたが、テッドはこなかった。
その翌日もテッドはこなかった。
猫がもどってこなかったのだろうか。
テッドとも会えなかったのでなにも事情がわからなかった。
「いつでも気軽な気持ちでノックしてくれていいよ」とは言われていたけれど、奥の寝室で、半裸でベッドに横になっている彼と同じくらいにハンサムな白人青年が目に入ってきたこともあって、なんとなくためらわれた。
とにかく、その日のうちに猫に会えることを期待していた緒斗は、テッドと子猫があらわれないので、意気消沈しているようすだった。
けれどもこちらは「きっと、ほかに猫を欲しがっている人がみつかったのよ」と彼をなぐさめながらも、大きな責任からのがれることができて、ほんとうはホッとしていた。
ところが、翌々日の夕方、緒斗とふたりで英語学校からもどってきて、アパートメントの階段をのぼろうとしたとき、どこからともなく、かぼそい可愛らしい動物の声が聞こえてきたのだ。
あたりを見回すと、アパートの植え込みの木の枝に茶色い猫が腹這いで乗っかっていた。
たいくつしたように四肢をぶらぶらさせながら、こちらをじっと見つめて、鳥のさえずりのような声で鳴いていた。
とても猫の声には聞こえなかった。
この猫がテッドが話していた猫にちがいない。
ハンサムな顔に、しなやかな体をしていた。
テッドが言っていたとおり〈容姿端麗な猫〉であることにまちがいはない。
足をぶらぶらさせている子猫を見ると、どことなくこちらを小馬鹿にしているようでもあったけれど、わたしたちはふたり同時に「おいでおいで」と日本語で呼びかけていた。
たぶん、目が合った瞬間、その猫に一目惚れをしてしまったのだ。
テッドから猫用のトイレと、かなりたくさんのキャットフッドをゆずり受け、その日から、その猫との暮らしが始まった。
10月はじめの日曜日のことだった。
胸に抱いたまま部屋へもどると、子猫はわたしの腕からのがれて床へ下りたがった。
抱かれるのをイヤがっているわけではなくて、抱かれることよりも、どちらかといえば、わたしたちのアパートを探索することのほうに興味が向いているようすだった。
じっさい、そっと床におろしてやると、部屋中を歩きまわりながら、すみずみの匂いをかぐことに夢中になっていた。
猫を抱きたくて仕方がなかった緒斗は期待はずれのようすだ。
子猫は濡れた黒い鼻先で、部屋の大きさや家具の位置やわたしたちの持ち物の匂いを確認したあと、とつぜん縦横無尽に部屋のなかを駆けまわりはじめた。
自分のほかに小動物がいるわけでもないのに、お尻をクイクイとひねって突撃のかまえを見せ、寝室までタタターっと駆けていってベッドの上で飛び跳ね、テーブルに跳びうつったかとおもうと、すばやく身をひねりながらフロアに着地し、こんどはわたしの足元めがけてすごい速さで突進してくる。
しかも、なにが楽しいのか、それをずっと繰りかえしていた。
わたしは子猫を落ち着かせるために、なんとかつかまえて抱き寄せようとしたが、相手はするりと腕からのがれて、ふたたび駆けまわりはじめる。
わたしが子猫をなだめようと奮闘しているあいだ、なにごともリサーチをせずにはいられない性格の緒斗は、近所の古本屋へ駆けこみ、猫に関する本を数冊手に入れてもどってきた。
彼の調べたところによると、この子猫はアビシニアンの血が濃く入っている雑種ではないかということだった。
明るく人なつっこい性格と筋肉質な体型も、まさに本に書かれている通りなのだそうだ。
わたしたちの部屋は3階なので「外に出すのは危険だから、完全な家猫にしたほうがいいと思うよ」と緒斗は言った。
わたしもその飼い方に賛成した。
子猫にしては、ずいぶん大きな体をしていたので、夜になってテッドにたずねると、「獣医が言ってたんだけど、オチンチンの大きさからすると、まだ生後4ヶ月くらいらしいんだよね」とのことだった。
まずは猫を洗わなければいけなかった。
けれども猫を狭いシャワー室で洗うのは大変だった。
もがいて逃げようとする猫に爪をたてられ、緒斗の手の甲と腕は傷だらけになった。子猫で、まだ爪が細いせいか、まるで剃刀(かみそり)で切られたような傷になっていた。それでも彼は癇癪(かんしゃく)をおこすこともなく、「物事(ものごと)は本で学んだようにはいかないものさ」とつぶやき、辛抱強くその猫をなだめながら洗っていた。
彼はどうも本物の猫好きらしかった。
子猫は毎朝目が覚めると、小鳥のようなさえずり声で鳴きはじめ、ベッドルームに招き入れるまで鳴きやまず、ときには「早く起きろ」とでも言わんばかりに扉をカリカリと爪でひっかいて音を立てるのだった。しかも、どんなにこちらが夜更かしをしても、起こされる時刻はいつも決まっていた。
つまり目覚まし時計が不要になったのだ。
今風に言えば〈自己中の猫〉だった。
何がなんでもたえず自分に注意をひきつけたいタイプの猫で、まさに attention seeking animal の典型のような猫だった。
緒斗が言った。
「そこには何もいないのに、まるでなにかがいるようなそぶりで猫が部屋の中を駆け回ることを、chasing the martian、て言うらしいんだ」
「火星人を追いかけてるの?」
「ま、目に見えない火星人を追いかけてるってことかな」
「追いかけてるフリをしてるってことね?」
「かもね。飼い主の注意を引くためだったらなんでもやるんじゃないの?」
「かしこいのね。見習わなくちゃ」
「子供のころ飼ってたけど、猫ってヤツはもともと自己中心的な生き物だと思うよ」
「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)って感じ?」
「うん。おそらく自分のこと〈神さま〉だと思ってんじゃないのかな」
テッドが手に負えなくなった理由はこれだったのだろう。
わたしたちもこの子猫にふりまわされ、わずか数日でくたくたに疲れはててしまった。
ところが、その子猫と出会ってから、ちょうど1週間がたったころ、わたしたち人間の目には見えない幽霊ネズミをつかまえるために部屋中を駆けまわっていたようなヤンチャ猫が、いきなりおとなしくなったのだ。
あれはたしか、日曜日の朝、〈バークレーボウル〉という店名のスーパーマーケットで買い物をした帰りだった。
散歩がてら、ふだんはあまり通らない住宅街を歩いていた時、黒人の家族に遭遇した。
彼らは、赤と黄色をつかったカラフルな家の前庭で引っ越しセール(garage sale)をひらいているらしく、自分たちの売りたい中古品や不要品をテーブルや絨毯の上にならべて、のんびりと食事を楽しんでいた。
緒斗がそのテーブルの上に大きなカセットデッキを見つけたのだ。
家族のなかの長男らしい少年が50ドルの値段をつけたが、こちらにはその金額を支払える余裕がなかった。
ところが、緒斗が「おれたち、スーパーで買い物をしたばかりで、今、5ドルしか持ち合わせがないんだ」と言って立ち去ろうとしたところへ、その14、5歳の少年が「Are you Japan?」と声をかけてきて、わたしたちの足を引き止めたのだ。
「Are you from Japan?」でもなく「Are you Japanese?」でもなく、「あんたたち、日本なのかい?」だった。
緒斗が「ああ、おれたちは日本から来たんだよ」と親しげに答えると、その黒人少年は妙に感激したようすで「ワオ」とつぶやいた。
少年が言うには、そのアメリカ製のカセットデッキを売って、はるかに質の良い日本製のを手にいれるつもりらしい。
「いままでの貯金と合わせたらなんとか買えそうなんだ」と肩をすくめた。
緒斗が「ふだん、どういうのを聴いてんの?」とたずねると、少年はつぎからつぎへと黒人ミュージシャンたちの名前をあげはじめた。
「いいね」と緒斗はうなずいていた。
彼はそのほとんどのミュージシャンを知っていたし、彼らの曲にもくわしかった。
それが少年をよろこばせたようすで、ふたりとも、話がとまらなくなった。
「わたしも、彼らのアルバム、2、3枚、持ってるわよ」
「マジで?」と少年。
「Seriously?」が流行するうんと前の時代のことだった。
当時はもっぱら「Really?」か「Come on!」か「Are you kidding?」が「マジで?」の代わりだった。
いつのまにかわたしたちはソウルミュージックとR&Bとモータウンの話で盛り上がり、けっきょく、気を良くした少年は、売値の10分の1の5ドルで、そのカセットデッキをわたしたちに売るハメになってしまった。
「ほんとにいいの?」と緒斗。
「ふっかけてみただけさ。けっこう使ったあとだから、気にしなくていいよ」
日本を離れてから数ヶ月、音楽に飢えていた緒斗とわたしにとって、それは予想外のうれしい買い物だった。
偶然の出会いがもたらしてくれた素晴らしい贈り物だった。
アパートにもどったわたしたちは、すぐさま大学近くにある中古レコードショップ〈ラスプーチン〉へ行った。
音楽カセットテープがひとつ25セントという破格の安値で売られていた。
わたしたちは、そのカセットテープをいくつもいくつも買いもとめ、アパートへもどってくるなり、つぎからつぎへと聴きはじめた。
すると、いつものように、見えない宇宙人をつかまえるために、興奮した目つきで部屋のなかを駆けまわっていた子猫が、ふいにピンと尻尾を立て、興味深そうにそばへやってきたのだ。そして、うれしそうにカセットデッキに頬をこすりつけ、「これは自分の持ち物だ」という所有権を表明しはじめた。それがすむと、こんどは、スピーカーに寄りそうかのように腹這いになり、澄ました顔つきで前足を交差させ、そのまま、すぐ耳もとから流れ出てくる大きな音を気にもとめないで、満足そうに目を細め、スフィンクスの石像のように動かなくなった。
1980年 秋 / バークレー
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