何がきっかけだったのだろう、いまではもう思い出せないけれど、とにかく、緒斗(おと)と口論になって、アパートを飛び出していた。
買ってまもないドロップハンドルの赤い自転車にまたがり、夢のなかで怪物に追いかけられているかのように、シャタックアヴェニューを全力で走っていた。
変速機を切り替え、前かがみになってペダルを踏みこむたびに、頬にあたる風の印象が変わっていく。
街灯の白い光に照らされた夜のメインストリート。
学生街のバークレーで、まだ深夜をまわったばかりだというのに、パーティ帰りのグループは見かけないし、クルマもまばらだった。
あてもなく走りだしたのだが、2、3分を過ぎたあたりから、夜の街景色が変化してきた。
どのあたりからそうなりはじめたのか、正確にはおぼえていないが、扉とショーウィンドウの両方が鉄格子でおおわれている店舗が目立ってきた。
レコード店や銃砲店や酒屋の看板の光が視界を通りすぎていった。
その鉄格子におおわれた窓と扉が、道の両がわを埋めたすべての店舗にひろがるのに、それほど時間はかからなかった。
どうもオークランド方面へと向かっているようだ。
ちょうど頬を濡らしていた涙が乾いたころだった、とつぜん背後からポリスカーのサイレンが聞こえたかと思ったら、すぐ真うしろに迫ってきたので、おどろいて振りむくと、こちらめがけて短く鋭いサイレン音を2、3回、まさに「自転車を停めなさい」と命令するかのように鳴らした。
なにかのまちがいだと思った。交通違反を犯したおぼえはないし、自分でも知らないうちになにかの犯罪に手を染めてしまったということもありそうになかった。
ポリスカーがわざわざ自転車を緊急停止させることなどありえないと思っていた。
だからそのまま無視して走りつづけた。
すると、ポリスカーはすばやく自転車を追いぬいたかとおもったら、行く手をふさぐようにしてななめに停まった。
あわてて自転車のブレーキをしぼると、ポリスカーからふたりの白人警官があらわれ、こちらへゆっくりと向かってきた。
ふたりとも大柄の警官で、股間の位置がかなり高く、ひとりは腰のホルスターにおさめてある拳銃に手をのせていた。
怖かった。そのときの恐怖感はいまでもあざやかによみがえってくる。
一瞬、ドクンッドクンッと胸がつまってしまうかのような動悸がしたかとおもったら、みるみる鼓動が早まってきて、こめかみのあたりがつっぱり、足の感覚もなくなってきた。
ふたりがフラッシュライトの光をこちらへ向けたので、視界が白くさえぎられ、おもわず手をかざして目をほそめるしかなかった。
その光を地面にそらしたあと、警官ふたりが「こんばんは」と声をかけてきたので、なんとか「こんばんは」と挨拶を返した。
力がぬけてしまって自分の足がどこにあるのかわからない感覚をいまでもおぼえている。
ひとりは自転車を照らしながら「きみの自転車かね?」と言ったので、それ以上のことを聞かれてもいないのに、購入した北バークレー地区の店舗名をすら教えてしまった。
怪しい人間だと誤解されたくなかったからだ。
なにも悪いことをした覚えがないのに、なぜか自分が悪いことをしたような気になって、足のこまかなふるえがとまらず、自分に裏切られたような気持ちになっていた。
それにしても、深夜に女が自転車に乗ってひとりで走ってはいけないのだろうか。
そんな法規でもあるのだろうか。
自転車に制限速度があるはずはなかったし、家を出てから十分もたっていないので、緒斗が警察に捜索願いの電話をかけたとも思えない。
「どこから来たのか?」とたずねられたので「日本からです」と答えると、腰の高い警官はいたってシリアスな表情で「いや、いま、きみが住んでいる場所のことだよ」と言った。
名前と住所を教えて、カリフォルニア州の身分証明書を出そうとしたら、「だいじょうぶだよ。そこまで必要ないよ。それより、どこへ行くつもりなんだい?」と警官。
「どこって……よくわかりません」
すると警官ふたりはふしぎそうに眉をひそめた。
「この道をこのまま走っていくと、きみの住んでいるアパートメントからは、ますます遠のくことになるんだが、わかっているのかね?」
「はい。あそこから、できるかぎり遠くへ行くつもりだったので……」
「友だちか知り合いの家へ向かっていたわけじゃないんだね?」
「ただ、走りたかったんです。月を見たかったんです」
「今夜は月は出ていないが」
「あっ、いま、気がつきました」
するとふたりはとつぜん険しい顔つきになった。
「出かける前に、なにか薬物は取ったかね? アルコール、マリファナ、LSD、マッシュルーム、その他、向精神薬など」
「いいえ、なにも」
「こっちを見てごらん」
警官がペンライトを取り出したので「はい」とうなずいてその光に目を向けた。
「この先はオークランドだよ。どんなところか知らないのかい?」
するともうひとりの警官が「きみのような女の子がこんな時間にひとりで行くような街ではないと思うがね。非常に危険な場所だ」とさとすように言った。
わたしは首をふって「勉強に疲れたから、ちょっと夜のサイクリングをしたくなっただけなんです」と嘘をついた。
警官はあきれた顔をつくった。
「とにかく、時間も時間だし、早く帰って寝なさい。もういちど注意しておくが、オークランドは治安が悪すぎるから、きみのような女の子がこんな夜中に行くところじゃないよ」
子供あつかいされたのはくやしかったが、警官の表情はかなり硬く、オークランド方面には絶対に行かせないぞといった感じで仁王立ちしているので、まるで立ち入り禁止のサインを見せつけられているとしかおもえず、どうしようもなかった。
ほんとうは、いまの話をきいて、深夜のオークランドがどんな街なのか、見たくてしかたがなくなっていた。
けれどもオークランドに知り合いはいない。
行くあてがないことはわかっていたし、けっきょくUターンをして、アパートにもどるしかなかった。
会釈したあと、ふたりの警官に背を向けてサドルをまたぎ、深々とペダルをふみこんだ。
わずか二十分の家出だった。
1980年 夏 / バークレーとオークランドの真ん中あたり
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