個人商店やレストランが立ち並ぶシカゴのハイドパークの53番街に中近東レストランがあった。
緒斗(おと)がシカゴ大学で出会ったユダヤ系アメリカ人の友人が「異国の味を楽しめるよ。しかも、そこ、安くて美味しいんだ」とそのレストランを教えてくれなかったら、気づかずに通りすぎてしまうほど、目立たない店構えだった。
扉をあけると、店内は薄暗く、6テーブルしかない古ぼけたレストランだった。
バークレーで一度ファラフェルを食べたことがあったくらいなので、中近東の料理の知識はほとんどなかった。
こじんまりしたレストランの壁には、フレームに入れられた写真が各テーブルごとに掛けられていた。
たぶん、ここを訪れた客たちの写真だろうと、すぐにわかった。
どれも笑顔を写した写真ばかりだった。
料理が来るまでのあいだ、ふたりで、ぼんやりと写真を眺めていた。
その中にモハメド・アリと思われるものがあった。
「まさか、彼、シカゴに住んでるのかなあ」
「けっこうこの店に来てるみたいだよ。こっちにも写真があるよ」と緒斗。
世界ヘビー級ボクシングの王者(チャンピョン)で、ベトナム反戦を訴え、徴兵を拒否したばかりに、ボクシング・ライセンスを剥奪(はくだつ)され、1967年から3年半という長い期間、試合を組むことすら許されなかった人だ。
60年代70年代、テレビに映っていた彼は、いつも特異な存在だった。
インタビューを受けた際の彼の発言は、かならずといって良いほどマスコミに取り上げられ、いつも話題になっていた。
店内には、緒斗とわたしのほかに客はいなかった。
わたしはスパイスの効いたファラフェルを注文した。
ちょうどそれを食べはじめた時だったかもしれない、扉が空いて、3人の男たちが入ってきた。
その中に、身長190センチはありそうな大柄の男性がいて、彼のその肩幅の広さに、わたしは圧倒的な存在感をおぼえた。
同時に、わたしは自分の目を疑わずにはいられなかった。
彼こそが、まさに壁を飾っていた写真のなかの男性だったからだ。
本物が出現したのだ。
「ね、ね、モハメド・アリよ。ホンモノの」
小声で緒斗に伝えても、彼はキョトンとした表情でこちらを見返すだけだった。
けれども、店主と思われる中年の男性が奥の厨房(ちゅうぼう)からあらわれ、「ようこそ、ようこそ」と笑顔をふりまきながら、モハメド・アリと付き人たちを招き入れ、いちばん奥のテーブルに案内をすると、ようやく緒斗も彼に気づいたらしい。
わたしたちはすばやく鼻をつきあわせて早口の小声でささやきあった。
「Yoko、あれ、モハメド・アリだよ。本物のモハメド・アリだよ」
「だから、さっきから、そう言ってるのに」
「信じられない。こんなところに現れるなんて。しかも、このタイミングで。おれたち、運が良すぎるよね」
「わたしたちの話し声、聞こえてるかも」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。日本語だからわからないってば」
と緒斗が言った矢先、わたしは咳が止まらなくなり、とつぜん立ちあがって、すがるようなまなざしを向けた緒斗をあとに残し、急いでトイレへ向かった。
アリの存在に興奮したのと、ファラフェルのスパイスが、同時にわたしの神経を攻撃したのに違いなかった。
数分後、トイレからもどると、さらに驚くべきことが起こっていた。
わたしたちのテーブルとモハメド・アリたちのテーブルがくっつけられていたのだ。
しかも、モハメド・アリと付き人の中年の男性ふたりと会話を交わしているのは、なんと緒斗だった。
緒斗は24時間周期の睡眠リズム(Sleep Circadian Rhythm)について話をしているらしかった。
付き人のひとりが心配そうにわたしをふりかえった。
「咳き込んでいたようだけど、大丈夫かい?」
「はい。ひさしぶりのスパイス料理だったので、ちょっぴり気管支がおどろいたのだとおもいます」
「ファラフェルが合わなかったのかな」と店主。
「いいえ。すごく美味しいファラフェルです。ほんとうに、もう大丈夫ですから」
すると、わたしにはよく聞きとれなかったが、その付き人のひとりは、さまざまな料理を店主に注文しはじめたようだった。
わたしが中近東料理に不案内だと言ったせいかもしれなかった。
アリは睡眠の話に興味があるようだった。
ひどく真剣な面持ちで緒斗の話に耳をかたむけていた。
緒斗はバークレーにいたころ、生物心理学(バイオサイコロジー)を専攻し、『睡眠』のセミナーをいくつか受けていた。
睡眠障害を自覚していない人でも、過剰な沈思(ちんし)のせいで眠れない夜を過ごしたことのない大人はいないだろうから、睡眠の話にはたいていの人が耳を傾けてくれるはずだ、と緒斗は日ごろから言っていた。
ボクサー脳症(パンチドランカー)を患いはじめていたのか、アリの動作はとても緩慢(かんまん)で、リングのなかを「蝶のように舞い」ながら相手のボクサーを「蜂のように刺す」と謳(うた)われた、類(たぐい)まれなる敏捷さをそなえたパワフルなボクサーのイメージからは遠かった。
後で知ったことだが、彼はそのころすでにパーキンソン病を発症していたのだった。
アリは緒斗の話にゆっくりとうなずいていたが、ほとんど食事には手をつけなかった。
わたしには何もかも珍しく美味しく、特にナスのフムスは格別だった。
付き人のひとりが、このハイドパークの南にソウルフードを食べさせてくれるところがあるから、行って見るといいよ、と地図を書いてくれた。70年という長い歴史を誇る店だから、と彼はしきりにすすめた。コーンブレッドやキャットフィッシュ(ナマズ)が美味しいのだそうだ。
わたしが地図に書かれたストリートの名前をたしかめていると、店の扉が開いて、中年の客たちが3、4人ほど入ってくるなり、つぎつぎにモハメド・アリに挨拶をしはじめた。
そこで緒斗とわたしは席を立つことにした。
食事代はすべて彼らが支払ってくれるというので、お礼を述べると、モハメド・アリが「いつでもぼくの家に遊びにおいで」と言ってくれたのだ。
付き人のひとりがその住所を教えてくれた。
私たちが住んでいるシェルバーン学生寮から歩いて十分もかからないところだった。
店を出たわたしたちは、ハイドパークの夜の空気を吸いこんだ。
街明かりに囲まれたまま、しばらく不思議な気持ちに囚われていた。
思いもかけない出合いに、その余韻のせいか、いつもは見慣れているはずのストリートや近隣の建物がどこか違って見えた。
それから、半月くらい経って、わたしたちはアリの付き人が書いてくれた地図を頼りにソウルフードの店を探した。
大学のキャンパスの最西端から10分くらい歩いて、ようやく地図に書かれたストリートへ抜けることができた。
殺伐とした場所だった。道路は傷んでいたし、歩道のすきまからは雑草が伸び出ていた。古びた煉瓦(レンガ)造りのビルがいくつもあった。そして人はまばらだった。
昼下がりだったが、あたりには車の通りが少なく、広い交差点の近くにあるはずのレストランは、どうしても見つからない。
バス停のそばに黒人の青年が突っ立っていたので、地図に書かれたレストランの名前を尋ねると、このあたりのことは新参者でわからないと言う。
そもそも看板を掲げている店舗がどこにも見当たらないのだ。
そんな場所柄なのかもしれない、と感じた。
歩き疲れた緒斗とわたしは、バス停のベンチに腰を下ろし、あたりの景色をぼんやりと眺めていた。
けっきょくあきらめて帰るしかないのだろうか。
「ちょっと、そこのふたり、どうしたの?」と黒人の中年の女性が声をかけてきた。
黒人しかいない街で、若い東洋人のカップルが疲れたようにベンチに腰かけているのが、奇異(きい)に見えたのかもしれない。
「あんたたち、具合でも悪いの?」
「いいえ、大丈夫です。ただ、このあたりにソウルフードのお店があるってきいて、ずっと探してたんですけど、どうしても見つからなくて」
「ソウルフード?」
不思議そうに眉をひそめた彼女に地図を見せた。
すると彼女もベンチに腰かけて、わたしと肩を寄せ合うかたちになった。
「ああ、ここね。このレストランだったら、もうひとつ向こうの交差点のところだね。あの高架鉄道の下だから、この地図はちょっと間違ってるわよ。でもあそこは改装中らしくて、いまは店を閉じてるけど」
緒斗とわたしは顔を見合わせ、たぶんそのとき、がっかりした様子で肩を落としたはずだ。
「あなたたち、そんなにソウルフードに興味があるの?」
「フライド・キャットフィッシュが美味しいって聞いたんです」
「キャットフィッシュ(ナマズ)が好きなの?」
「いや、まだ一度も食べたことはないけど」と緒斗。
「じつは、ハイドパークの中近東レストランでモハメド・アリさんに出会って。彼のお付きの方がすすめてくれたんです」
「モハメド・アリ?」と黒人女性。
「ええ」
「彼だったら、小学校のすぐ近くの大邸宅に住んでるわよ。アリはわたしの息子のヒーローよ。立派なボクサーだったわ。タイトルを剥奪されてもベトナム反戦運動やめなかったし。そういえば、彼はね、若い頃、ジムのトレーニングの帰りに、あなたたちが探してるそのレストランにしょっちゅう来てたのよ。わたしはそこで働いてたから、よくおぼえてるわ。あなたたち、そこの大学の学生さん?」
「そうですけど」
「キャットフィッシュはね、ミシシッピが産地なのよ。養殖場だけどね。ミシシッピは水が豊富だから。わたしはね、ミシシッピデルタのチュラってとこで生まれたの。ほんとうに貧乏なとこでね、はっきり言って、アメリカで一番貧乏なところよ。見渡す限り、コットン畑。父さんも母さんも早くに病死して、30キロくらい離れたベルゾーニって町の親戚の家に弟たちと一緒に引き取られたんだけど、朝から晩までコットン畑で働かされたわ。わたしはコットン畑が大嫌いだった。それで年上の男と15歳の時にミシシッピデルタから逃げ出したんだよ。逃げ出したのはいいけど、いろんな目にあってね。でもね、最後に出会った人がいい男だったの。ちゃんと稼ぎもあって、しかも、わたしと結婚してくれたんだから。故郷にも帰ることができたしね。でも驚いたのよ。話には聞いてたけど、見渡す限りのコットン畑がキャットフィッシュの養殖場に変わってて。格子状にどこまでも延々と養殖場がひろがってて、みんなそこで働いてたわ。わたしの弟たちもみんなそこで働いてるのよ」
彼女はそれからキャットフィッシュの料理の仕方を色々教えてくれた。
わたしがメモをとりはじめると、クレオール風のチキンガンボの作り方まで教えてくれた。
「旦那がルイジアナ出身だからね、週に一度は必ず作るのよ」と微笑んだ。
オクラにピーマンにセロリなどをたくさん入れたのが彼女の旦那さんの好物のスープだったらしい。
ハイドパークにはキャットフィッシュを売っているスーパーマーケットが見つからなかったので、結局、作ることができなかったが、彼女のおかげでケイジャンスパイスの効いたガンボスープの虜になったわたしは、ほとんど毎日、そればかりを作って、シカゴの蒸し暑い夏を乗り越えることができた。
1988年 春 / シカゴ
無断引用および無断転載はお断りいたします
All Materials ©️ 2021 Kazuki Yoko
All Rights Reserved