子犬のポーズは思い出のポーズ
駅をあとにして、冬の陽ざしのなかをしばらく歩いていると、公園通りのなかほどで、まだ10代のなかばにしかみえない兄と妹が、リトリーバーの子犬をつれているのが目にはいりました。
まだ自分の脚(あし)さえおもいどおりにならないような子犬ですけれど、巻きとり式のリードには慣(な)れているようすでした。ときおり脚をもつらせながらも、抱きかかえてもらいたいようなそぶりをすら見せずに、トコトコと小走りでついていきます。
その子犬がしきりにこちらをふりかえるのです。
わたしの帽子がめずらしいのでしょうか、それとも、どこかで見たことのある顔だな、とでも思ったのでしょうか。
そのしぐさの可愛らしさから兄妹に声をかけて子犬の名前をおしえてもらいました。
その名前も、とても、かわいらしいものでした。
腰をおとして、その子犬のあごのちょっと下のあたりへ手をのばし、じっとしていると、こちらの顔色をうかがいながら指先の匂いをかいだあと、さっそくわたしの手の甲をなめはじめました。
そして不思議そうに小首をかしげてこちらを見あげたのです。
その子犬のしぐさが、3日後のいまになっても、いまだに、まぶたに浮かんできます。
どこか見覚(みおぼ)えのあるポーズでした。ずっと気にはなっていました。けれどもどうしても思いだせないので、音楽でも聴こうかとおもいたったところへ、とつぜん記憶がもどってきたのです。
ステレオ電蓄のなかの子犬
幼いころ、家具のように大きなビクターのステレオ電蓄(でんちく)が応接間におかれていたのですが、そのオーディオ機器とビクターのレコード盤には、ともにユニークなロゴマークがついていました。それが、このあいだ公園通りで見かけた子犬の、あの、かわいらしく小首をかしげたしぐさにそっくりだったのです。
蓄音器のかたわらで、ラッパ型拡声器をのぞきこむようにして耳をかたむけている犬の絵を、みなさんもどこかで目にしたことがあるかもしれません。
『ビクターマーク』もしくは『ビクターのロゴ』でお調べになったらすぐにその絵が見つかるはずです。
犬はフォックス・テリアで名前はニッパー。その犬の主人が亡くなったあとに、彼の弟さんで画家でもあった方が、亡き兄の録音された声を蓄音器でニッパーに聞かせたところ、まるで彼のことを思い出しているかのように耳をかたむけていたので、そのすがたに心をうたれて絵に残したのだそうです。
そして、ご主人の声(His Master’s Voice)と呼ばれるその絵は、後年、商標として登録されて、ビクター社とグラモフォン社の両方でつかわれることになったのだそうです。
いまではHMVという会社がHis Master’s Voiceの頭文字をそのまま社名にしています。
ところで、応接間におかれていた真空管式ステレオ電蓄と、父や姉のあつめていたレコード盤に描かれていたロゴマークは、円盤型蓄音器(gramophone)の拡声器に耳をかたむけているニッパーの絵だったとおもいます。そしてこれがわたしたちにはもっともよく知られていたものだったのではないでしょうか。けれども、この絵の由来(ゆらい)をしらべていたときにおどろかされたのは、もうひとつ別の絵もあったということでした。それはエジソンの発明した円筒型蓄音器(phonograph)のかたわらでご主人の声に聞きいっているニッパーの絵でした。
このロゴにまつわるお話しは、ほかにもたくさんありますので、興味をひかれた方は、ぜひ、インターネットでお調べになってください。
それにしても、録音された音声をはじめて耳にしたときの人々のおどろきとは、いったいどのようなものだったでしょう。
死者をよみがえらせる魔法の機械
耳にちいさなイアフォンをいれて、歩きながら、ときにはジョギングをしながら、またはお仕事をしながら、電車のなかでもお風呂のなかでも、好きなときにヒトの声や歌や音楽をきくことのできるわたしたちには、ほとんど想像すらできないような衝撃(impact)だったのにちがいありません。
蓄音器が発明される19世期のおしまいまで、ヒトは長いあいだ、自分の目の前で演奏されている音楽しか耳にしたことはありませんでした。つまり、すぐ間近(まぢか)でだれかに歌ってもらうか、ギターやハープシコードや琴やピアノを弾いてもらうか、街角に立っている演奏家に耳をかたむけるか、教会や寺院や劇場へ出かけたりするしか、音楽を聴くことはできませんでした。また、自分の目の前で話したり公演したりしている人や人々の声しか、耳にしたことはありませんでした。
ところが、音を記録して再生することのできる、この蓄音器という機械が発明されたおかげで、わたしたちは、いまここにいない人の声や歌や演奏を聞いてたのしむことができるようになったのです。
まるで「感覚革命」が起きたようなものだったのにちがいありません。
あまりのおどろきで、蓄音器のなかに小人がかくれているのではないかとうたがった人がいたそうです。また、悪魔がつくった道具だとこわがった人々がいたことも伝えられています。
宗教にかわって、わたしたちに夢と安心と奇跡をもたらしてくれるのは科学なのだ、と信じるようになる新たな時代がおとずれたのです。
わたしは、いま、CDやMP3で、あたりまえのように、じっさいには会ったこともない日本や海外の音楽家たちの演奏をたのしんでいますけれど、これはスマートフォンのなかからウサギが跳びだしてくるくらいに、または月が海に落ちてしまうくらいにおどろくべき出来事だったはずです。
すでに亡くなられた人の声も、それが記録されてさえいれば、ふたたび再生して聞くことができます。しかも何回でも、気のおもむくままに、気のすむまで。
遠い国の遠い密林の奥にひそんでいる獣の声も、気のおもむくままに、気のすむまで、自分のお部屋のなかで何度でも聞くことができます。
エジソンのおかげで、わたしたちは死者をよみがえらせる魔法と、遠く離れた場所での出来事をひきよせることのできる魔法のふたつを手にいれたのです。
写真もそうですけれど、音声を記録するということは時をとめることに似ているような気がします。それを再生するたびに、保存されていた過去が、そのときのまま、よみがえってきます。
現実 x 非現実 = 非現実?
また、自分の部屋から一歩も外に出ることなく、遠い場所で記録された出来事を耳にすることもできるようになりました。ついさっきも言いましたが、たとえ、数千キロ以上はなれたコンサート会場での歌や演奏ですら、自分の部屋のなかで聞くことができるのです。
たぶん、この蓄音器の発明とともに、それまでヒトが経験してきた時間と空間の感じ方が、それまでとはまったくちがうものに変わってしまったのではないでしょうか。
つまり現実の受け取り方そのものが変わってしまったような気がします。
いま、わたしがじっさいに経験しているこの現実は、せいぜい5メートル四方の内がわで起こっていること、このわたしの五感がとらえることのできる範囲にかぎられたものでしかありません。
つまりわたしの視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚で知ることのできる範囲内にあるものだけが現実です。
じっさい、窓の外へ目をむけても、巨大なロボットがあらわれて向かいのマンションを破壊したりはしていませんし、窓のすきまから金粉や銀粉をまきちらしながら妖精たちが舞いおりてきてはいません。それに、通りですれちがった犬や、駐車場にとめられた自動車のボンネットに寝そべっている猫が、とつぜん日本語を話しはじめたりもしません。
それをわたしはこの目と耳でたしかめることができます。
それと同じように、ベッドにかるくお尻をひっかけ、パリで録音されたピアニストの演奏を聞くこともできます。
けれどもわたしはパリのそのコンサートホールに行ったわけではありませんし、そのピアニストに会ったこともありません。
彼の演奏をじっさいに耳にしたわけではないのです。
そのコンサートが開かれた夜、わたしはいつもと同じように夕食の用意をしていました。
それがわたしの現実です。
ですから、ほんとうにその方がその夜のその時間にその場所でその楽曲を演奏したのかどうか、たしかめる方法はありません。
ただ、そのアルバムの説明を読んで、そこに書かれてあることを信じるよりほかに方法がないのです。
もしかしたら、まったく別のピアニストが別の国で演奏していて、それをその方のもののようにごまかしているのかもしれませんが、わたし自身は、じっさいにその夜その演奏会場に行かれた方たちと会ったことはないですし、たぶん会うこともできないでしょうし、また、そのコンサートに行かれた方たちの意見をじっさいに聞いたこともないので、けっきょくわたしにはたしかめる術(すべ)がありません。
ひとりびとりが対面している〈現実〉とは、たぶんそういうものではないでしょうか。しかもそれは太古の昔からそれほど変わってはいないような気がします。
わたしの現実は、あくまでも、この、およそ5メートル四方くらいの狭い範囲にかぎられているのです。
わたしの現実はちっともカラフルではありません。
映画やTVドラマのように刺激的なことがつぎからつぎへと起こったりもしません。
でも、この5メートル以内の出来事は、かなりしっかりとしたものに感じられますし、その範囲のなかにおられる方とお話をしたりお食事をしたりしているときには、その方の存在をかなりはっきりと感じとれます。
わたしの心がうみだしたまぼろしではないはずです。
たぶん……。
イマジネーションは愛の泉
みなさんも、たぶん、このような現実を生きておられるのではないでしょうか。
だからこそ、この狭いちいさな経験の範囲からのがれるようにして、ヒトは想像する力をうみだしたのかもしれません。
いまここにないものを思い描いたり、いまここにいない人に想いをはせたり、過去に起こったことにたいして悲しみや怒りやくやしさや恥じらいを感じたりする能力は、ほんとうにすばらしいものだとおもいます。
魔法のひとつだとおもいます。
でも、蓄音器という魔法の機械はそれにとってかわるような力をもっていました。
想像力をつかわなくても、かわりに機械がその夢を見させてくれるようになったのです。
現実を変えてくれるような気がするのです。遠くまでひろげてくれるような気がするのです。過去へさかのぼらせてくれるような気がするのです。
でも、それは、じっさいの現実ではありません。
じっさいの現実は、いま、お部屋のなかで蓄音器に耳をかたむけているあなたがいる、という「静謐(せいひつ)な状況」そのものなのですから。
ところで「現実は砂をかむような生活のくりかえしだ」という意味のことばを耳にしたことがありますけれど、ほんとうにそうなのでしょうか?
毎日、おなじ道をおなじ時刻に歩き、おなじ電車に乗って、おなじ学校やおなじ会社に通っていたとしても、その道すがら、または電車のなかで、いままで気がつかなかった新しい発見やおどろきに出会えるかもしれません。
高みから自分の暮らしを見おろすと、退屈なことのくりかえしのように感じられるかもしれませんし、これから先もそれほど変化はなさそうに見えますけれど、ちいさな虫になったつもりで、もういちど見なれたものをながめてみますと、ふいに別の景色があらわれたりして、なにげないあたりまえのことがたのしく感じられたりもします。
空想の力によって、現実から、つかのま、飛び立つことができるからだとおもいます。
けれども想像する力は空想する力とはちがいます。
想像力は現実から遠ざかるものではなくて、現実にはたらきかけるためにあるのではないかとおもいます。
ココとはちがう現実に心をちかづけることのできる能力だとおもうのです。
ずいぶん昔のことになりますけれど、あるフランスの哲学者が「愛とは想像力のことだ」とおっしゃいました。
遠くはなれている人、自分とはちがう人生をおくっている人、自分とは性別すらちがう人。
その人は、いま、どんなふうにすごしているのかしら。だれとどんなことを話しているのかな。数年前にはどんな人で、いまはどのような気持ちでいるのかしら、などと、知力と感性のふたつをつかいながら、まるでその人になったかのように考えることのできる生き物は、なんてすばらしい魔法を手にいれたのでしょう。
共感とか感情移入(empathy)などとはすこしちがったものかもしれません。
だれかを〈思いやる〉ためには想像力がいります。
もしヒトに想像力がなかったとしたら世界はきっと型にはまった単調で冷酷なものになっていたかもしれません。
ニッパーが聴いていた声
蓄音器はすばらしい発明です。
けれども、自分の現実はあくまでも5メートル以内で感知できることだけ、ということを忘れないようにしなければ、蓄音器をもとに発達してきた、さまざまなお道具にだまされてしまうかもしれません。
それらのお道具は、日々、どんどん進化してきて、わたしたちの想像力の肩代わりをしてくれています。それどころか、はるかに想像をこえる世界を提供してくれてもいます。
でも、このようなお道具は、あくまでも、生活をたのしむためのもの、生活を便利にしてくれるものでしょう。
こういうお道具に甘えて現実を見失ってしまうことのないように、これからはもっとうんと気をつけなくては、と自分に言い聞かせているところです。
ニッパーはなつかしいご主人の声を聴いたかもしれませんが、ニッパーのそばに、ご主人はもういないのです。
不在なのです。
犬にはそのことがわかりません。
わたしたちヒトという生き物は、〈死〉という現実がもたらすものを理解しているからこそ、小首をかしげているニッパーの姿に心をうたれ、あの絵がうまれたのではないでしょうか。
だからこそ、その絵を見たわたしたちも、心をうたれるのです。
自分の主人が亡くなったことを知らないまま、雨の日も風の日も雪の日も、ずっと渋谷駅に通いつづけた忠犬ハチ公のエピソードに心をうたれるのと同じように……。
昔のひとは、それを〈もののあはれ〉(saudade)と表現しました。
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