米国のティーンズのセックスの問題と悩みって?
まず、ふたつの例をご紹介します。
ひとつ目は女性セックスセラピストの記事からです。
深夜遅くに電話がかかってきたので、おどろいて携帯電話に手をのばすと、彼女がセラピーにあたっていたご夫婦の娘さんからでした。
15歳になったばかりの白人の娘さんです。
ほんのさっきまで、友だちの家で開かれていたパーティを楽しんでいたのだけれど、自分好みではない男の子にしつこく言いよられて、口もききたくないのにキスをしたがるものだから、うんざりして、かわりにブロウジョブ(フェラチオ blow job)をして、いまもどってきたところなの、と話したそうです。
フェラチオをしていたとき、まわりのみんなにワイワイとあおりたてられて、そのまま精液を飲みこんじゃったのだけれど、病気が心配になって、どうしても眠れなくなった、というのが電話をかけてきた理由だったそうです。
ふたつ目は、家庭問題と結婚問題を専門にしている女性のサイコセラピスト(精神療法士)の記事からです。
米国の中高生たちのあいだで、いまだに『レインボーパーティ』(Rainbow party)が行われているという事実に驚かされた、と書かれてありました。
10代の少女や少年があつまるパーティには、たいていお酒やドラッグがつきものですが、女の子は、ひとりひとり、それぞれ色のちがうリップスティックで自分の唇を色どり、かわるがわる男の子にフェラチオをほどこすのだそうです。
そうやって、男の子のペニスを、赤色や黄色や青色や紫色など、まるで虹(レインボー)のような色で染めるのですけれど、もしも、このゲーム(儀式)に参加することを拒(こば)んだ女の子がいたら、彼女は、罰ゲームとして、ショットグラスに満たされた強いお酒を、ひと息に2、3杯は飲みほさなければいけなくなるらしいのです。
レインボーパーティは都市伝説なの?
レインボーパーティは、2003年の『オプラ・ウィンフリー・ショー』ではじめて全米に紹介され、2005年には『レインボーパーティ』をそのままタイトルにつかった青少年向け小説(ライトノベル)が発売されて、よりいっそう一般の若者たちにも知られるようになったようです。
けれどもセックス研究者やヘルスケアの専門家たちによると、じっさいにこのようなパーティがおこなわれているという事実はどこにもなく、この話題は、ある特定のティーンエイジャーたちが信じられないような不道徳なことをしているとマスコミがあおったせいで、世間一般の親たちが不安にかられてモラル・パニックを起こした結果、ますますその話題が若者たちのあいだにひろまり、一種の都市伝説へと変化していっただけなのではないかということでした。
ほかのエッセイにも書いたおぼえがあるのですが、1980年代、カリフォルニアで暮らしていたとき、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染して免疫力が低下したためにエイズを発症するひとたちが後をたたなくなりました。
わずか3ヶ月のあいだに、心理学や社会学や生物学の授業を受けていたゲイの青年たちが、つぎからつぎへと姿を見せなくなって、クラスルームのなかの席が歯抜けになっていくといった、そういう状況でした。
サンフランシスコの歓楽街のひとつに、世界的にもよく知られていて、レズビアンやゲイの方たちのためだけに特化したカストロ・ストリート(新宿2丁目を拡張させたような場所です)という通りがあります。
その界隈(かいわい)で、当時、ホモセクシュアルの男性の3人にひとりが亡くなるだろう、という情報が流れていたのをおぼえています。
モラル・パニックってどんなものなの?
ちょうどそのころ、NIAID(アメリカ国立アレルギー・感染症研究所)のディレクターだったアンソニー・ファウチという医師が、スポークスマンとしてマスメディアの「顔」となりました。
このアンソニー・ファウチという方はひんぱんにテレビに顔を出していたのですが、あるとき、家族同士で唇に軽いキスをしただけでもHIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染してAIDSを発症するおそれがある、と発言したものですから、全米がパニックにおちいり、幼稚園や小学校では、汚染された輸血のせいでAIDSを発症した子供が、登校を拒まれたり、ほかの子供の親たちから暴力をふるわれたり、また、その子供の家に石が投げこまれたり、扉に赤いペンキで『AIDS』(エイズ)となぐり書きされたりするような事件があとをたたなくなったことは、いまだにはっきりとおぼえています。
アメリカ南部に住む黒人のひとびとが、白い三角頭巾と白い服に全身をつつんだ北方白色人種至上主義をかかげる秘密結社のKKK(ク・クラックス・クラン)の会員たちから家を焼かれるドキュメンタリーの場面をおもいだして、とても苦しい不愉快な気持ちを味わいました。
これがモラル・パニックのひとつの例です。
このファウチ医師は、しばらくたってから、あれは科学的にはまちがいだった、と訂正したのですけれど、そのまちがいによってアメリカ中をパニックにおとしいれた罪と、AIDSはゲイの男性特有の疾患だと述べたことで男性同性愛者への差別意識をひろめることにもなった罪を問われ、さまざまな団体から批判を受けて裁判沙汰にも発展したようです。
にもかかわらず、メディアに登場する頻度はますます増し、昇進していったのも記憶に残っています。
Wikipediaをお読みになるとファウチ医師は素晴らしい科学者で人道的立場からさまざまな疫病に取り組んできたかのように書かれていますけれど、じっさいにはエボラウイルス感染予防への取り組み方にたいしてもさまざまな医学団体から疑問視されていることは無視できないかもしれません。
もともとWikipediaはひとびとみんなで創りあげるニュートラル(中立的)な立ち位置の百科事典というのがふれこみだったはずなのですけれど、2007年のロイターの記事ならびにオーストラリア放送協会の記事において明るみに出されたように、いつのころからか、政治家や有名人や作家や学者などの経歴だけではなくて、米国の軍事的覇権や巨大コーポレーションの利権にかかわるさまざまなトピックスについて、CIAとFBIによる編集の手が加えられている事実がわかってきました。
ところで、コロナ騒動がはじまった2020年ころには、米国の大都市などで、おもにアジア系の方たちが、マスクをしているために感染者あつかいされ、通りすがりにいきなり殴られたり、地下鉄のホームから突き落とされたりした事件があとをたちませんでした。
それが、コロナ騒動の後期になって、マスク着用が義務づけられるようになると、こんどは逆に、マスクをしていなかった乗客が、旅客機のなかや飛行場などで、ほかの乗客からツバを吐きかけられたり、暴力をふるわれたりする事件がひんぱんに起こるようになりました。
これもモラル・パニックの結果です。
ひとびとを継続的な不安と恐怖におとしいれると、理性的判断ができなくなり、主体性をうしないます。そうなると、他者の意見にまどわされることなく、みずからの意志と判断と責任において考えたり行動することができなくなってしまいます。
つまり、〈わたし〉が〈わたし〉でなくなるのです。
こうなると、なにをどう考えたらよいのかわからなくなり、なにをどのように感じたらいいのかすらあいまいになり、どのように行動したらよいのかまるで見当がつかなくなります。
そして、いつのまにか、権威があるとみなされたひとびとの意見だけに従うようになるのです。
わたしたちの、このような心の動き方はすでに臨床心理学の実験で確かめられているだけではなく、脳内で感情をつかさどっているとみられている扁桃体(amygdala : アミグダラ)や、心的外傷後ストレス障害に深いかかわりがあり、また、うつ病だけではなく、わたしたちの短期の記憶にも深いかかわりがあると考えられている海馬(hyppocampus : ヒポキャンパス)にも影響をあたえるということが確かめられています。
今日では、政府の方針や大手メディアの意見に従わせるために、国民を不安と恐怖にかりたて、狭い部屋のなかに閉じこめられたような気分におちいらせておいて、この、日々、終わることのない不安から自由になるためにはこうするしかありませんよ、と、たったひとつの出口にだけに向かわせるという戦術(tactics)が使われることがありますけれど、もとはといえば、テロリストたちが使うもっとも基本的な戦術のひとつなのだそうです。
①恐怖は混乱を産む。(Fear create Chaos.)
②混乱は暴力を産む。(Chaos create Violence.)
③暴力は変革を産む。(Violence create Change.)
その変革の軸をにぎろうとするのがテロリストたちなのです、とカリフォルニア大学バークレー校で聴講生をしていたころ、政治学(ポリサイ : ポリティカル・サイエンス)の授業で学んだことがあります。
ただ、いまでは、それがテロリストたちの戦術ではなく、政府が国民をコントロールするための戦略になっている、と述べる方がいます。
「ツインタワーが崩壊した9/11事件後に作られた法律や、新型コロナウイルスの感染がひろがるなかでのワクチンの強制的接種、また、その副反応に警鐘を鳴らしている学者や医師などに対する検閲と黙殺、そして大学の教職からの排除だけではなく医師免許の剥奪にまでおよぶ、さながら1950年代の〈赤狩り〉にも似た国の方針とその背景を調べれば調べるほど、いまではアメリカの政府そのものが、いや、その政治家たちを巨額の献金によってがんじがらめにしている大手製薬会社そのものが、このテロリズムの方法論を身につけて大手メディアを動かしながら、じっさいにその方法をもちいて、わたしたちアメリカの国民を巧みにコントロールしているとしかおもえない」とピューリッツァー賞を受賞した元ニューヨークタイムズのジャーナリストだったクリス・ヘッジズ氏(Chris Hedges)が述べています。
「つまり〈暴力〉の部分を〈権威〉に置きかえさえすれば、現在の国の姿が見えてくるはずなのです」と。
①恐怖は混乱を産む。(Fear create Chaos.)
②混乱は権威を産む。(Chaos create Authority.)
③権威は統制を産む。(Authority create Order.)
ファウチ医師はコロナ禍でも大活躍?
そういえば、このアンソニー・ファウチという方は、HIVの世界的流行から40年がたって、今回のコロナウイルス感染症の世界的流行がはじまったときに、バイデン大統領の「首席医療顧問」に任命され、コロナウイルス感染症の専門家として、ふたたびメディアの「顔」として大活躍なさっていました。
ただ、2022年に入ってからは、合衆国上院議員で医学博士でもあるランド・ポール氏による公聴会に呼びだされて、ファウチ氏の監督下にあるアメリカ国立衛生研究所(NIH)とアメリカ疾病予防管理センター(CDC)による中国の武漢ウイルス研究所(Wuhan Institute of Virology)への金銭的関与が問われはじめました。
また、その金銭関与問題にくわえて、武漢研究所でおこなわれていたとされる機能獲得(gain of function)と呼ばれる研究についての審問もはじまりました。
その公聴会(公の場での審問会)でのおふたりの激しいやりとりが、なんとYouTubeなどのソーシャルメディアで『Rand Paul vs Anthony Fauci』コンピレーションになるなど、話題には事欠かない方のようです。
この機能獲得研究(gain of function : ゲイン・オブ・ファンクション)というのは、自然界に存在していたウイルスの遺伝子を操作することによって変化させ、そのウイルスの毒性を強めたり、新たな特性をつけくわえたりして、それまでにない新しいウイルスを作成するという研究のようです。
その研究の目的は、それまで自然界(ウイルスを媒介する動物やヒトなどをふくめて)には存在しなかったような毒性の強いウイルスを新たに作りだして研究すれば、もしもそれに似たウイルスがじっさいに登場してヒトに感染し蔓延したときにも、すぐにワクチンを作って対処できる、ということらしいのですが、もしもそんなウイルスが研究所の職員さんに感染して外へ逃げ出したりしたらたいへんなことになるのでは? なんて、ことばにならない不安を感じてしまいます。
なぜならこの研究は生物兵器(biological weapon : バイオロジカル・ウェポン)を作るために悪用されるかもしれない危険性をふくんだ研究だと考えられているからです。
不思議なのは、コロナ禍(騒動)のあいだ、ファウチ医師とともに、たびたびメディアの「顔」としてメジャーのネットワーク番組に登場し、コロナウイルスの危険性やワクチン接種の必要性などについて解説していた億万長者のビル・ゲイツ氏(医師の免許は持っておられません)は、ウイルスと疫病を専門にしておられる学者さんたちにお呼びがかからないのとは逆に、コロナ感染症(corvid-19)についてのもっとも有名なお茶の間解説者としてひんぱんにメジャーメディアに登場なさっていたことです。
ところで、このビル・ゲイツという方は、コロナ禍による騒動がはじまる直前に製薬会社ファイザーの株を購入し、この2年間に、わずか10億ドルの資金で200億ドルを得たということをテレビのインタビューで自慢げに話しておられましたので、いまでは「公然の秘密」になってしまいました。
1ドルを170円として計算してみますと、1兆7000億円の投資で34兆円をもうけたことになりますから、今年になって、ビル&メリンダ財団が、こんどは世界保健機関WHOの運営資金の88%にあたる額を出資することになったというニュースにもうなずけます。
このニュースが流れたとき、海外の「有識者」と呼ばれる方々が「これは世界保健機関が個人の所有物になったのも同じで、ゆゆしき問題だ」と討論なさっていたのは、記憶に新しいところではないでしょうか。
ちょっとした付録ですけれど、同じくメディアの「顔」として活躍しておられたファイザー製薬会社のCEOアルバート・ブーラ氏は、自社のワクチンをブースターをもふくめて接種していたのにもかかわらず、去年(2022年)新型コロナウイルス検査で陽性反応が出たことでも知られました。
このアルバート・ブーラという方のご専門は獣医学だそうです。
ウィキペディアはいつもほんとうに正しいの?
それはとにかく、「レインボーパーティ」について、サイコセラピストはつぎのように述べていました。
ウィキペディアに目を走らせると、この『レインボーパーティ』は、「都市伝説」(urban legend アーバン・レジェンド)のひとつとみなされているようです。
けれども、じっさいにはかなりの頻度(ひんど)で行われているもので、都市伝説でもなんでもなく、たんなる事実でしかありません、と書いています。
にもかかわらず、なぜ、セックス研究者やヘルスケアの専門家たちは、ウィキペディアにおいて「レインボーパーティが現実に行われていると主張するのは、この世界のどこかに『一角獣』(unicorn ユニコーン)は存在すると主張しているようなものです」という結論をみちびきだしたのでしょうか、と問いかけ、その理由はかんたんに見つかります、と、つぎのような説明をくわえています。
まず、パーティの内容を両親に打ち明けるような子供たちなど、めったにいないこと。
つぎに、調査のために出会った初対面の若者たちに親しげなふるまいをみせる研究者たちを、子供たちがまったく信用していないこと。
とくにティーンエイジャーの世界では、仲間の秘密をオトナにもらすことは、仲間にたいする裏切りであり、そのような裏切り行為にたいしては、彼らがもっとも恐れている孤独をもたらす『仲間はずれ』という制裁(せいさい)が待っているからです。
そのことを理解してあげなければいけません、とセラピストの彼女は述べています。
彼らは、ものごころがついたころからソーシャルメディアの世界のなかで呼吸しているのですから、ソーシャルメディアの世界で制裁を受けることがどれほど苦しいつらいことなのか、その世界に生きていない世代には、なかなか理解できないことなのです、とも書いていました。
ヘアがあるだけでこんな目にあわされるの?
つぎの例は、息子が自殺願望を抱いているらしいからなんとかしてください、と相談された女性セラピストの記事からです。
この方はファミリーセラピーの専門家です。
有名な私立の男子校(private boys’ school)に入学したあと、14歳の息子さんからみるみる明るさが消えて、親と話さなくなり、ひとりきり部屋に閉じこもることが多くなったらしいのです。
その少年となんどかセッションを重ねるうちに、この女性セラピストは、彼が学校でイジメにあっているという事実をつかみます。
すべては、少年がロッカールームで着替えをしていたときに始まったらしいのです。
まわりにいた男の子たちが少年の下半身を指さしながら大笑いしたことが発端(ほったん)でした。
ほかの少年たちは、全員、きれいに股間部のヘア(pubic hair)を処理していて、下半身はツルツルの状態だったのですけれど、少年にはまだそこにヘアがあったからです。
それを見られてからというもの、彼は、みんなから『毛むくじゃら』(The Hairy Dude)と呼ばれるようになってしまったのです。
ソーシャルメディアにおいても、おなじように小馬鹿にされて笑い者にされたために、登校拒否におちいり、この世界から消え去りたいと願うようになったということです。
いまの米国では、とくに白人で中産階級の家庭に育った10代(13歳から19歳までのティーンズ)の男の子は、ワキとスネのヘアを除毛しているだけではなくて、股間部のヘアも除毛処理しているのがあたりまえで、股間にヘアがあるというのはネアンデルタール人(原始人)あつかいされるらしいのです。
しかも、ほとんどの親は、自分の子供にそんなことが起こっているなんて夢にも思わないという別世界に生きています。
なにかが大きく変わってしまったのです、とセラピストは書いています。
とくに、スマートフォンがこの世に誕生してからというもの、その変化のスピードはますます増しています、と。
子供たちはあらゆることをすべてスマホを通して学ぶようになり、親や先生をふくめたオトナへの信頼と尊敬はますます右肩下がりに薄らいでゆくばかりで、このままでは、子供たちが異性との接し方やセックスのやりかたを学ぶのは、ほとんどがポルノサイトからだけになり、事態はどんどん悪い方向へと向かっているとしかおもえません、と述べていました。
スマホとポルノと除毛トレンドの関係って?
ところで、10代(teens)の女の子たちのあいだでは、すでに2005年あたりから、ハリウッドのポルノ女優さんたちのように股間部をツルツルに除毛処理することがあたりまえになっていたようです。
わざわざ毛穴のなかの毛根までをも除去する「医療脱毛」(medical epilation メディカル・エピレーション)を誕生日プレゼントとして親にねだる子供たちまでもが出てきたのもこの当時からだそうです。
股間部(プライベート・パーツ private parts)のヘアが嫌われるようになり、反対に恥丘(ヴィーナスの丘 mons pubis)の盛りあがりと、そこにきざまれた少女のような一本の縦スジに美しさを見いだすようになってきたからなのでしょう。
米国の心理学専門誌に掲載された記事に目を通してみますと、2000年あたりから、ハリウッドポルノの影響もあって、西洋文化圏のなかの、とくに白人女性たちのあいだで、股間部のヘアは嫌悪感をあたえるものだという考えがひろまりはじめたらしく、剃毛(shaving シェービング)から除毛(removal リムーヴァル)へと変化していき、それがいつのまにか毛根までをも除去する脱毛(epilation エピレーション)の流行にまで発展してきた、と書かれてありました。
そういえば、1990年代には、股間部にきっちりと食いこむようなスラックスやショーツや水着を身につけることで、女の子が自分の恥丘とその縦スジのシルエットをひとびとの目にさらすことが流行していたのをおぼえています。
エンボス加工のように浮きあがらせたその股間部のシルエットが、ちょうどラクダのつま先に似ているためキャメル・トー(camel toe)と呼ばれていました。
考えてみると、キャメル・トー(くっきりワレメちゃん)の流行そのものが、その後にくる除毛処理をほどこしたツルツルの股間部を予見していたのかもしれません。
また、ちょうどそのころから、北米や欧州諸国のヌーディスト(裸体主義者)の男性たちのあいだでも、股間部のヘアを完全に除毛することがトレンドになりはじめたということです。
除毛の歴史を調べてみたら…?
それはそれとして、女の子が股間部のヘアをととのえる(トリムする・刈る)という行為は、1946年にビキニが誕生したころからはじまっていますし、1980年代からはブラジリアン・ビキニ・ワックスによる除毛法がトレンドになりました。
このビキニという水着は、第2次世界大戦後にはじめて原爆実験がおこなわれたビキニ環礁から発想を得た名称だそうで、さまざま批判を受けたことでいっそう知れわたったそうですから、いまでいう炎上商法を成功させた過去の例のひとつなのかもしれませんね。
ところで、このような除毛の習慣は、古くは古代ギリシア時代からのもので、そのころ、上流階級の女性にとって、除毛はお化粧の一部であり、社会的地位の高さを示す象徴、つまり、ステータス・シンボルでもあったとされています。
古代ギリシャ彫刻のヴィーナス像(ミロのヴィーナス)の股間部にヘアの描写が彫られていないのはそのためです。
上流階級の女性たちにみられる、このような除毛の習慣は、古代ギリシャだけではなくて、エジプト、ペルシャ、インド、そしてアラビアなどでも広く行きわたっていたようです。
さて、ビキニのデザインが変わるにつれて、とくに胸の谷間(クリヴァージュ)や下腹部のカットラインの変化とともに、女性たちも、それに合わせるかたちで、ムダ毛のお手入れのしかたを、さまざま、工夫してきました。
けれども、1960年代から70年代にかけて黒人のひとびとによる公民権運動が強まるなか、旧来の価値観に抵抗するかたちでフェミニズム運動とヒッピー思想がともにひろまり、「反男性至上主義」や「自然への回帰」という考えが時代の思潮(ツァイトガイスト)になりはじめ、ワキや股間のヘアをととのえたり剃ったりするのを拒む女性たちが増えてきます。
それが1980年代になると、ファッションブランドのグローバル化とともに、ハイレグの水着が登場してきたため、ふたたび股間部のヘアを刈ってととのえる(トリムする)という風潮がもどってきました。
それどころか、たんにムダ毛をととのえる(刈る)というだけではなく、剃毛(シェービング)という行為までもがあたりまえになってきたのです。
ティーンズたちの除毛とソーシャルメディアとの関係って?
そして、2010年あたりになると、スマホやラップトップを通してのインターネット・ポルノビデオ(ネットポルノ)がひろまって、少年少女たちの性意識と行動に大きな影響をおよぼすようになり、さきほどお読みになった10代の女の子たちの除毛処理の流行とともに今にいたっています。
もちろん、レインボーパーティに参加した女の子たちや、男子校でヘアのある少年をいじめている同級生たちや、股間部をツルツルにしてしまう少女たちには、ある共通点が見つかります。
セラピストの女性が指摘しているように、彼らはみんな、ソーシャルメディアでつながった仲間たちと、学校での出来事だけではなく、こまかな生活行動のほとんどすべてをシェアしているということなのです。
そして、せっかくさまざまなセックスを試しているというのに、そうすることにあまり楽しみと快感をおぼえていないような印象を受けます。
みずからの行為を醒めた意識で見ているようですし、相手の気持ちだけではなく、みずからの気分や感情にたいしても、大人びた冷めた態度で接しているように見受けられました。
たとえば、なにをするにしても、それは「みんながしていることだから自分もそうする」ということなのでしたら、自分がほんとうに心から望んでいるものは見えてこないはずです。
それ以上に、もし、仲間はずれにされたくないために、だれからも命令されたりうながされたりしているわけでもないのに、みずから、まわりのみんなから望まれているのはどんな行為なのだろうかとおしはかって、それを実行する、というのであれば、その行いに喜びを感じないのはとうぜんではないでしょうか。
そうしたい、という自分の心の声ではなくて、そうしたほうがいい、というみんなの声が頭のなかにあって、その大勢のささやき声に、いつも背中をおされているのかもしれません。
わたしは、2016年に米国の名門大学のキャンパスでおこなわれたインタビューを読んでいたとき、あるひとりの女子大生のことばが強く印象に残りました。
「わたしたちの世代にプライバシーはありませんでした。すべてはパブリック(公:おおやけ)だったのです。13、4歳のころから、自分の生活のすべてをフェイスブックやインスタグラムにさらけだしてきた世代なのですから。それがわたしたちの生き方そのものでした。人生は秒単位で刻々と移り変わりながら過ぎ去っていきます。先行きは不安ですし、気にかかることばかりです。でも、楽しいことだってあったのです。そのディテールをみんなとシェアすることで、なんともいえない安心感が得られましたし、心の痛みもやわらげられて、元気づけられていたのにちがいありません。わたしは、自分ひとりでなにかを深く考えるのではなく、みんなといっしょにグループとして考えることを好む世代のひとりなのかもしれません」
でも、これは、一歩まちがえると、仲間からの無言のプレッシャーにおしつぶされて、いわゆるまちがった集団思考(groupthink)におちいりやすくなるかもしれません。
みんながそうしているからわたしもそうする。
このような群衆心理は、みんなとひとつになってダンスやコンサートを楽しんでいるときには素晴らしい刺激と興奮をあたえてくれますけれど、その群れの外にいる方たちからすると、たいへんな迷惑だ、ということにもなってしまって、いろいろとむつかしい問題をはこんでくるようです。
わたし自身をふりかえってみてもわかるのですが、みんなといっしょにいるときには、自分が危ない綱渡りをしていることにはなかなか気がつかないものです。
たぶん、自分のほんとうの気持ちがつかめていないために、その危うさに気がつかないのかもしれません。
なぜなら、みんなといっしょにいるときに感じる人肌のぬくみと安心感が、心の痛みや悲しみや不安をかき消してしまいますから。
ティーンズの親たちが知らないことって?
また、セラピストたちの多くは、つぎのように述べてもいます。
いままで多くの家族にセラピーをおこなってきましたが、ティーンエイジャーたちのご両親に「いまの子供たちはパーティに行くと、こういうことをしているんですよ」とか「学校のトイレではこんなことが起こっています」とか「ロッカールームや自室のベッドの上で、彼らは友だちとこういうことを話しています」と教えても、「うちの子供はちがいます」とか「うちの子供にかぎってそういうことはありません」とこたえる親たちの数が9割以上にのぼっています。
けれども、いまの子供たちは8歳~10歳になったころからすでにスマートフォンでポルノを見た経験があり、とくに姉や兄のいる子供たちはネットポルノに触れる機会が多くなります。
なにげなくのぞいたスマホのスクリーンや、つけっぱなしのラップトップの画面に、乱行パーティやアナルセックスやレズビアンセックスやディルドを使ったオナニー映像が映っていて、それを見た少女や少年が、もしかしたら、自分の両親も、自分たちが寝たあとは、こっそりとこんなことをしているのだろうかと小首をかしげることが、日々、あたりまえのように起こっているのが今の時代なのです、と書いています。
たしかに、わたしの12、3歳のころを思い出してみると、両親が出かけているとき、父の書棚からずっしりしたヌード写真集をひっそりと盗み出して、自室のベッドのなかでこっそりとながめて楽しんでいました。
また、姉の書棚から谷崎潤一郎の『卍』や川端康成の『眠れる美女』などをぬきとっては、ベッドのなかで胸の高まりを鎮めながら楽しんでいました。
けれども、父も母も、まさかわたしがそんなことをしているなんて、夢にもおもっていなかったようでした。
ですから、とうぜん、そんな少女たちと、ふだん町のなかですれちがったとしても、もしかしたらこの子たちはそんなイケナイことをしているのかも、なんて疑う人はだれひとりとしていないはずです。
それどころか、彼女たちがいたって快活で清楚なふんいきをまきちらしていることは、YouTubeやInstagramやTiktokをごらんになっている方々なら、おわかりだとおもいます。
もともと、わたしたちオトナが受けるポルノの印象と、少女や少年たちがネットポルノを見て感じているところが、はたして同じなのかどうかすらわかりません。
いったんオトナになったら、過去の自分はもう他人(ミステリー)なのかもしれません。
上手に思い出すことがむつかしい、というよりも、思い出のなかの自分を理解するのがむつかしいのです、たぶん。
オトナがセクシーさを感じるような場面を見ながら、少女たちはキャラキャラと笑いころげているかもしれませんし、オトナがありきたりに感じて退屈している画面を見ながら、逆に、眉をひそめて「ええっ? マジでぇ~?」とか「なんか意味わかんないんだけど」とか「わ、こういうのヤバくない?」なんて言いつつ、友だちとワイワイさわいでいるかもしれないので、モラルがどうのこうのと批判してもしかたのないことのようにおもわれます。
しかも、たとえ、彼らの現状を親に話しても、「まさか」と苦笑して、「うちの子はなにも知りませんよ」とか「うちの子にかぎってそんなものを見ているはずがありません」と断言する両親が多いこともまた事実なのです、とセラピストは述べています。
この「そんなはずはない」という否定のことばは、子供への「愛」や「信頼」から生まれたことばではなくて、あくまでも自分の心を傷つけないための、つまり自分を守りたいがためのことばなのにちがいありません。
そして、この否定こそが、さらに子供たちを孤独に追いやっているのではないかと、わたしはおもいます。
ご存知のように、否定とは打ち消すことです。
それは、目の前に在るものから目をそむけるということですし、べつの見方をすれば、相手が自分とはまるでことなる他人なのだという事実を認めない、ということでもあるのではないでしょうか。
でも、それとはまるで反対の方々もいらっしゃいます。
だれかを心の底からほんとうに好きになったら、自分とはちがうところも、また、理解できないところも、すべてひっくるめて好きになってしまう、という方々です。
「とにかく、あなたが幸せだったら、わたしも幸せ」という立ち位置の。
それは、好きになった人の自由を大切にしたいという姿勢のあらわれでもあるでしょうし、おなじように自分の自由をも愛してやまないという姿勢でもあるのかな、とわたしはおもっています。
10代の少女たちの性の事情がヴェールにおおわれているのは…?
ところで、わたし自身のあのころをふりかえってみますと、両親をふくめたオトナの方たちから、いつまでたっても処女であるかのようなイメージをいだかれ、そのようにあつかわれることにたいして、なんともいえない違和感というかおかしみをおぼえていたことはたしかです。
もしかしたら、「お手々」(おてて:ひとりエッチ)をしていたことにすら罪の意識を感じなかったことが、オトナたちにそういうイメージを抱かせたのではないかと、いまになっておもったりもします。
あのころは、どちらかといえば、公共の場でお化粧をしたり、百貨店や喫茶店やレストランのトイレにおかれているゴミ箱に生理用品を捨てたりすることのほうが、よりいっそう恥ずかしいことだと感じていたはずですし、その感情はわたしの女ともだちにも共通していたような気がします。
ひとりきりでいるとき、もしくは大好きなだれかといるときは、あくまでも「わたくしごと」なので、そこでは何をしてもかまわないけれども、いったん公(おおやけ)の場所に出かけたときには、それなりのマナーと規律をたもって、まわりにいるひとびとに迷惑をかけたり不愉快な思いをさせないように気をくばらなければいけない、というのがあの時代の常識(コモンセンス)だったという、ただ、それだけのことなのでしょう。
とはいっても、オトナの男性が、奇妙な生き物を観察しているかのような顔つきでこちらを見るのが、なんともいえず不思議でしかたがなかったこともありました。
とにかく、少女の意識は1秒としておなじ場所にとどまらない、ということばには真実がふくまれているとしかおもえません。
少女の興味はすぐに別のところへ移ってしまいますので、そのせいで、さきほどまで恋人と信じられないようなエッチを楽しんでいたとしても、ホテルをあとにしたとたん、はじらいがちにつないでいた手をほどいて、満面に笑みを浮かべながら、ついこのあいだ見たコメディ番組やTikTokの話題に興じるということはふつうだとおもいます。
そしてその話に飽きたとたん、こんどは「このこと親にバレたらどうしよう」と沈みがちになったり…。
そういう変幻自在に見える部分が、彼女たちの親だけではなく、わたしたちオトナ一般にとっても、少女の見えにくさの原因になっているのではないでしょうか。
しかも、彼女たちの移り気の早さが、ソーシャルメディアでつながっている「イイネ友だち」から受けるさりげないプレッシャーによるものであったり、また、彼らのあいだで流行しているものへの盲目的な追随(ついずい)であったとしたら、オトナの目にはますます理解できない不可思議な存在にしか見えないのはとうぜんだとおもいます。
そのせいで彼女たちのセックス事情や性行動にもおどろかされるのかもしれません。
それぞれの時代にはそれぞれのマナーがあり、そのマナーを守らない人たちだけが、いつもメディアに大きく取りあげられて世の注目をあびるのは、今も昔も変わらないメディアの立ち位置のせいでしょうし、また、群集心理がもっているベーシックな反応によるものでもあるのでしょう。
わたしの受けた印象では、いまの少女や少年たちのほとんどは、あざといくらいに礼儀をわきまえていて、あのころのわたしにくらべたら、うんと世間通(せけんつう)で賢く見えますし、オトナよりもうんと自分の見せ方を心得ていて、損得勘定にもたけているし、メディアがさわいでいる出来事を冷静に観察しながら、先の見えないこの世界のすみっこで、みんなといっしょに「いまだけ」を楽しんでいるかのような演技をつづけている、そんな生き物に見えます。
そんな少女や少年たちに、レインボーパーティでもなんでもいいから、自分たちのしていることを、心から楽しんでもらいたいとおもいます。
セックスに関するかぎり、わたしたちヒトがおもいつくセックスの楽しみ方には、ほとんどキリがありません。
ヒトの体のなかで、もっとも感じやすい、もっとも大きな性感帯は「脳」なのですから。
そして、ヒトの性欲を高めてくれるのは、栄養ドリンクでもなんでもなくて(プラシボ効果はあるようですけれど)、じつは想像力なのですから。
①性感染症と②妊娠と③暴力にさえ気をつけていれば、セックスはだれにでも楽しむことのできる素晴らしい娯楽ですし、また、もっとも大切なコミュニケーションの手段のひとつでもあります。
もしも、自分たちのしていることを心から楽しめないのだとしたら、そして、どうしても喜びの感情がわかないのだとしたら、どこかにウソがあるか、どこかにムリがあるのかもしれません。
彼らがアメリカ人であっても、あるいは日本人であっても、たとえ、わたしの知らない国の少年少女たちであっても、どちらか一方だけが得をするようなセックスからは身を遠ざけてほしい、というのが正直な気持ちです。
なにかを心から楽しんでいる顔、快感を味わっている顔は、国境をこえて人のこころを惹(ひ)きつけるはずです。
たとえ短いあいだであっても、そのときの表情の輝きは、生きていることの喜びを伝えてくれるからだとおもいます。
いつかかならず死をむかえることを知っているヒトという生き物だからこそ、その一瞬の輝きのなかにエロスを感じることができるのかもしれません。
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