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わたしのこと
いつのころからか学校が大キライになりました。そして女学院の高等部2年のときからズル休みがはじまりました。
裏玄関から「行ってきます」と出かけて親の目を盗んで表玄関からこっそり家へもどり、自室のクローゼットのなかに終日こもって、そのなかでお弁当を食べながら、懐中電灯を片手に読書をしていました。
とはいっても、ちゃんと大人顔負けの欠席届を書いて、それを提出するために一週間にいちどは女学院に出かけていましたので、合計欠席日数はほとんど60日をこえていました。
1972年のことですから、登校拒否・引きこもりの先陣を切っていたのだと思います。
両親に見つかってからは、自殺をするのではないかと疑われて、学校の先生からも監視されることになり、自由の幅がかなり狭くなりました。
また、暗闇のなかで読書をしたり詩を書いていたりしたせいで、いっきに目も悪くなりました。
けれども父がわたしにメガネをかけさせることを拒んだために、当時はまだ目新しかった「コンタクトレンズ」というものをつけさせられることにもなりました。
3歳のころ、家にあったバイオリンをかまえ、不協和音を奏でながら、狂ったように踊っていたそうです。
父がラフマニノフやガーシュインのレコードをステレオ電蓄でまわすたびになにかが降りてきてわたしに憑依したらしいのです。
セーラー服を着るようになってからは、シルヴィ・ヴァルタンやミッシェル・ポルナレフ、そしてローリングストーンズ、ドアーズ、ピンク・フロイドなどを聴きながら、ひとりで踊ったりするようになりました。それでも、やはり、どこからか、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番と交響曲第2番第3楽章が流れてくると、頭がしびれて、麻薬を打たれたように自分の意志を失ってしまい、もうどうなっても良いどうにでもして、という態度になってしまうのは、そのせいだと思っています。
プロテスタント系の女学院を出て、東京の大学で国語学を学び、卒業して2年後、親の反対を押し切るように結婚し、カリフォルニアに行って、そのまま10年間、アメリカですごすことになりました。そして、カリフォルニア大学バークレー校とシカゴ大学では、ひとりの聴講生として、それまで知らなかったさまざまなことを学びました。
口笛が吹けません。
指を鳴らすことができません。
ときどき右に曲がろうとして左へ曲がったりします。
脳内のGPSが子供のころから故障していたのだと思います。
でも顔をしかめずにきれいにウインクができます。
16歳のころにしっかり練習をつんでみごとに習得することができました。
自分の体のなかで別の人格をもった他人が育つということがおそろしく、また、自分のおなかが信じられないくらいにふくらむという現象もこわくて、「妊娠」ということばを目にするたびにふるえあがっていました。
それにくわえて、わたしたち人類は、第三次世界大戦、もしくは自然の崩壊、もしくは資源の枯渇でほろびるというような映画を見たり、そのような本を読んだりしたせいで、女学院時代からすでに子供をつくるのが怖くてしかたがありませんでした。
お国にも人類にもなにも貢献してこなかった女だとおもっています。
子供のいる女性、子供を育てた女性を見るたびに、尊敬の念がわいてきます。
わたし臆病者なのだとおもいます。
そのくせ向こう見ずなところがあります。
というか計画性というものがないのでしょう。
父に抱いてもらおうとして、駆け足で飛びついていったつもりが、そのまま縁側からジャンプすることになり、庭の池へまっさかさまに落ちてしまい、文字通り死にかけました。
そのエピソードを、両親から、うんと大人になるまで聞かされました。
池におかれていた岩と岩のあいだの、そのわずかなすきまに、すっぽりと落下したのだそうです。
もし、あと数センチずれていたら「頭が割れていた」ということばかり、なんども聞かされて、なんども悪夢を見ました。
未来へむかってジャンプしたつもりでも、その着地点がずれてしまうことはあるという事実を、ずいぶん幼いころに、身をもって教えられたのだとおもっています。
そのとき死んでいたら、また別の何かに生まれ変わって、ちがう生命として生きてこれたのかもしれない、とも。